イトスギ

イトスギはヒノキ科Cupressaceaeイトスギ属Cupressusの総称で、英語ではcypressサイプレスです。北半球の広い地域に分布します。ヨーロッパでイトスギといえばホソイトスギCupressus sempervirensのこと。地中海、アドリア海沿岸から西アジアに自生しています。常緑の針葉樹で、葉が密生して細い樹形が円錐形やモコモコとした火焔型になるのが特徴です。アルル時代のゴッホが好んで描いたことでも知られています。

聖書のノアの箱舟についての記述で、「あなたは、いとすぎの木で箱舟を造り、箱舟の中にへやを設け、アスファルトでそのうちそとを塗りなさい。」[1]創世記 第6章第14節とあります。もとのヘブライ語では「いとすぎ」のところはゴフェルgopherという言葉になっていて、実際にどんな樹種であったのかがわかっていません。けれども、イトスギは材が密で堅く、防虫、防腐の性質も高いため、古代からレバノンスギと並んで重要な建材として利用されてきました。

サイプレスの名は、ギリシャ神話の中に登場するキュパリッソスΚυπάρισσος(Cyparissus)という美少年に由来するそうです。彼はとても仲の良かった牡鹿を誤って槍で突いて殺してしまいます。悲嘆した彼は哀悼の象徴とされるイトスギの木に変身しました。この神話だけでなく、イトスギは古来より死や喪、死後の世界、永遠の生命など生と死を象徴する木とされています。ローマ時代には、家で葬儀を行う際の印としてイトスギの枝を玄関に供えたそうです。また、地域によってはイトスギを墓地に植える習慣があり、木棺の材料のひとつともされていました。

左:墓地のイトスギ / 右:イトスギの葉と球果

アガサ・クリスティの作品に「杉の柩」Sad Cypressという小説があります。個人的には彼女の書いたものの中でベスト10に入れている名作です。ポアロものですが、主人公エリノアの木目細かな心理描写とアガサお得意の巧みなレッド・ヘリンング(読者を間違った推理へ導く手法)が秀逸。その題辞に引用されているのが、ウィリアム・シェイクスピア作の喜劇「十二夜」Twelfth Night, or, What You Willの第二幕第四場、道化師フェステの歌の前半部分です。

Come away, come away, death,
And in sad cypress let me be laid.
Fly away, fly away, breath;
I am slain by a fair cruel maid.
My shroud of white, stuck all with yew,
O, prepare it!
My part of death, no one so true
Did share it.

シェイクスピアといえば小田島雄志、それと彼が影響を受けた坪内逍遥。お二人ともsad cypressを杉の柩と訳しています。そのため、アガサの小説の日本語タイトルも「杉の柩」[2]恩地三保子訳・早川書房・1957年初版とされたのでしょう。
ネギとタマネギが違うように、ニホンジカとニホンカモシカが違うようにスギとイトスギはまるで違う植物です。同じヒノキ科であっても、樹形や樹高も葉や球果の形状も異なります。そもそもスギは学名Cryptomeria japonicaが示すように日本の固有種で、一属一種の植物です。イギリスはもとよりヨーロッパや地中海地域では自生していません。スギとイトスギは材質も違うので木棺のイメージも変わってしまいます。安易な翻訳は困りものです。

河合祥一郎の「新訳 十二夜」[3]角川文庫・2011年刊行では、本編の方は韻を踏むためにかなりの意訳になっているものの、訳注として以下のような直訳が記載されています。

来たれ、来たれ、死よ
悲しい糸杉の棺に私を納めよ
絶えろ、絶えろ、息よ
私は美しくつれない乙女に殺される
櫟(いちい)の枝に飾られた私の白い経帷子(きょうかたびら)
ああ、それを用意してくれ
私ほど誠実な者が私のような死に方を
したことはない

十二夜とは、クリスマスの12月25日から12日目、つまり1月5日の夜のこと。1月6日はキリストの降誕を知った東方の三博士が星に導かれてベツレヘムへ赴き、幼な子イエスを礼拝した日とされ、顕現節(けんげんせつ・イエスが初めて人前に姿を現したことを祝う)The Epiphanyとしてキリスト教の祭日となっています。十二夜はその前夜のお祝いです。同時にクリスマスの飾りを片付ける日でもあります。アドヴェントから始まる約6週間のクリスマス期間の終わりです。

右:東方の三博士の礼拝(サンドロ・ボッティチェリ画)

地中海に浮かぶキプロス島Cyprusの名前の語源がイトスギと言われることもありますが、いくつかの異説があり定かではありません。

References

References
1 創世記 第6章第14節
2 恩地三保子訳・早川書房・1957年初版
3 角川文庫・2011年刊行