シリアの首都ダマスカスにあるウマイヤモスクUmayyad Mosqueは、大モスクとも呼ばれ、現存する世界最古のイスラム教礼拝所です。ウマイヤ朝[1]661-750年・聖戦により中央アジアから北アフリカ、イベリア半島へと領土を広げたイスラム王朝の第6代カリフのワリード1世[2]在位705-715年の命によって建造されました。この場所は古代から礼拝のための施設があったことがわかっています。メソポタミアの神アダドを祀る神殿が、ヘレニズム時代にはゼウス、ローマ時代にはユピテル(ジュピター)へ捧げられ、4世紀になるとキリスト教の教会へと移り変わります。そして391年には、ローマ皇帝テオドシウス[3]大帝・392年にキリスト教を国教化によって拡張されて司教座が置かれ、聖ヨハネ大聖堂となりました。それは洗礼者(バプテスマ)ヨハネの首がここに埋葬されているという理由からです。
洗礼者ヨハネとは、イエスの先駆者として人々を導き、イエスにヨルダン川で洗礼を施したことからこう呼ばれる重要な預言者です。ヨハネは、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスの不道徳を指摘したことで投獄され、その妻ヘロデヤの謀略によって殺されてしまいます。ヘロデはヨハネを捕らえたものの、彼の教えを受け入れ、また彼への民衆の支持の高さも知っていたので、処刑をためらっていました。ところが、自分の誕生日の宴席で舞を披露した娘サロメに対して、褒美として何でも欲しいものを与えると約束してしまいます。ヨハネを恨むヘロデヤの入れ知恵で娘からヨハネの首を求められ、仕方なく応じるというストーリーです。[4]マタイによる福音書第14章1-12節・マルコによる福音書第6章14-29節その場面はオスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」で有名になりました。
モスクの中にはヨハネの首を安置しているとされる祠があります。実は、洗礼者ヨハネの首を納めていると主張しているところが他に3か所[5]ローマのサン・シルヴェストロ・イン・キャピテ教会、フランスのアミアン大聖堂、ミュンヘンのレジデンツあり、さらにイエスに洗礼を施したであろう右手を持っているという修道院や博物館がいくつもあるのです。ヨハネに限らず、聖人や聖職者の体の一部や服飾品などは聖遺物relicといいます。奇跡を起こすものと信じられていて、それ自体が崇拝の対象となりました。特に有名な聖人の聖遺物ともなれば、持っていることが教会の権威につながるだけでなく、参拝者が増えることで収入も大きくなるため、競って入手を試みた人々も多かったようです。聖遺物への信仰は、仏教やイスラム教、ヒンドゥー教などほかの宗教でも行われています。
ビザンティン帝国の支配下にあったダマスカスは、634年に「神の剣Sayf Allah」の称号を持つ名将ハリド・イブン・アル・ワリード率いるイスラム軍の手に落ちました。さらに、ヘラクリウス帝[6]在位610-641年が送ったビザンティンの大軍はヤルムークの戦い[7]636年・ヨルダン川の支流ヤルムーク川付近で大敗し、シリアのイスラム領化は確定します。その後、イスラム帝国の中心都市ダマスカスにふさわしい大モスクの造営が決まり、聖ヨハネ大聖堂は解体されてウマイヤモスクへと生まれ変わりました。工事の際に発見された聖ヨハネの首の入った箱は柱の中に埋め戻され、礼拝用の広間に上述の祠が建てられたのです。キリスト教の聖人がイスラム教のモスクの中に祀られていることを不思議に思う人もいるでしょう。しかし、キリスト教がユダヤ教を母体にしたのと同じく、イスラム教もキリスト教をもとにしてできており、イスラムではイエスもヨハネも預言者のひとりとして扱われていることを知れば至極当然と理解できます。
ウマイヤモスクは縦122.5m、横50mという中庭を持ち、その礼拝用の広間は縦136m、横37mの大きな空間です。柱やアーチには色大理石が使われ、壁面と天井は見事なモザイクで覆われています。ビザンティン時代のキリスト教の教会と共通する装飾ですが、違いは聖人や動物の図柄がなく、植物や幾何学模様でできていることでしょう。
一般的に、モスクは礼拝用の施設のためイスラム教徒しか立ち入ることができません。でも、ウマイヤモスクは史跡として誰でも入場することが許されています。女性は顔と手首から先しか露出させてはいけないので、服装の準備は必要です。