アルフレッド・ヒッチコックAlfred Hitchcockは言わずと知れたスリラー、サスペンス映画の巨匠です。昭和世代で映画通を自認する人は一通り観ているでしょうし、そうでない人も「鳥」や「サイコ」といった有名作品はご存じのはずです。ヒッチコックの映画については十分に研究され、情報も出回っています。ここでは個人的な視点で好きなヒッチコック作品を3本だけご紹介しましょう。(どれが1位とかいうわけではありません)
①バルカン超特急/The Lady Vanishes
これはまだヒッチコックがイギリスにいた第二次世界大戦前の1938年に制作されました。中欧にあるという架空の小国を舞台にしたスパイもの。雪崩で列車が立ち往生するところから始まって、ほぼすべてが列車内で起こるという設定はアガサ・クリスティの「オリエント急行殺人事件」と同じです。イギリスからの観光客アイリス・ヘンダーソン(マーガレット・ロックウッドMargaret Lockwood)は、家庭教師のミス・フロイ(メイ・ウィッティMay Whitty)と知り合います。彼女がコンパートメントでひと眠りして目を覚ますとミス・フロイがいません。同室の乗客はそんな人は知らないと言い、車掌も他の乗客たちも見ていないと口を揃えます。彼女はただひとり味方となったくれたクラリネット奏者のギルバート(マイケル・レッドグレイヴMichael Redgrave、ヴァネッサ・レッドグレイヴの父)と共にミス・フロイの捜索を始めるのです。ところが、何やらそこには国際的で大掛かりな陰謀が絡んでいて、二人はどんどんと巻き込まれ…。
読んではいないのですが、この作品にはイギリス女流作家エセル・リナ・ホワイトEthel Lina Whiteの原作”The Wheel Spins”があります。
映画としてストーリーももちろん面白いですし、「真っすぐという名の通り」Street called Straight[1]ダマスカスにあり、聖パウロの伝道の序章につながる場所、 「シャルトルーズの緑」Chartreuse verte[2] … Continue readingなど人物描写の小技が効いていますね。原題”The Lady Vanishes”の意味は「姿を消す女性」。英語ではdisappearもvanishも「消える」です。でもdisappearが徐々に消えるイメージであるのに対して、vanishは突然消えるとか急に消滅するみたいな感じでしょう。
邦題は映画評論家でこの映画の日本配給を行った水野晴朗氏が付けたそうです。映画の内容とは関係ないものの、かつてバルカン半島が「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれていたことや、日本公開当時は東西冷戦のさなかであったこともあり、不穏なイメージを想起させます。ちなみにバルカン半島は、氷河期レフュジア[3]氷河期に氷に覆われず生物が生き残った場所のひとつです。生物多様性ホットスポットとして知られており、研究者の注目を集めています。
この映画は、1979年にシビル・シェパードCybill Shepherdとエリオット・グールドElliott Gouldの主演でリメイクされ、「レディ・バニッシュ/暗号を歌う女」のタイトルで日本公開されました。ミス・フロイ役は「クリスタル殺人事件」”The Mirror Crack’d”でミス・マープルを演じたアンジェラ・ランズベリーAngela Lansburyです。
②海外特派員/Foreign Correspondent
ヒッチコックがハリウッドへ移った1940年に、「レベッカ」”Rebecca”に続けて制作されました。アメリカはまだ前年に勃発した第二次世界大戦には参戦していなかったものの、イギリス側の要請もありプロパンガダ要素を盛り込んだ作品になっています。オープニングのタイトルクレジットで監督の名前に続いて流れるのは、”To those clear-headed ones who now stand like recording angels among the dead and dying…”「果敢で率直で頭脳明晰な記録天使」と海外特派員という仕事を褒めたたえる文章です。そしてエンドロールに流れるのはアメリカ国歌。
大戦の開戦前夜、New York Morning Globe紙からヨーロッパへ派遣された、正義感あふれるアメリカ人新聞記者が国際的陰謀を暴くために活躍するという物語です。ジョン・ジョーンズ(ジョエル・マクリーJoel Albert McCrea)はハントリー・ハヴァストックHuntley Haverstockのペンネームで現地情勢を記事にして送るよう指示されます。彼の最初の仕事は、ロンドンの昼食会でのオランダ外交官ファン・メールに対するインタビュー。ところが急に彼が昼食会を欠席したため、アムステルダム世界平和会議で次の接触を試みることに。ジョンがUPP会議場前でファン・メールを見つけて声をかけたところ、ファン・メールはカメラマンのふりをした男よって銃で撃たれてしまいます。仲間の車で逃げた犯人を追いかけるために乗り込んだ自動車には、平和活動家の娘キャロル・フィッシャー(ラレイン・デイLaraine Day)と彼女の友人の記者スコット・フォリオット(ジョージ・サンダーズGeorge Sanders)が。彼らの協力によって犯人の隠れ家に潜入。本物のファン・メールを見つけたものの一味を取り逃がします。ジョンは、大きな陰謀が隠されていると知り、命を狙われながらも勇敢に立ち向かっていくのです。
会議場前の傘が群れるシーンから、緊張感連続の雑踏での追跡、オランダ田園地帯のカーチェイスへ至る辺りは非常に撮り方がうまいです。ウエストミンスター大聖堂の塔の場面、それに海上で飛行機の残骸が荒波に揉まれる場面もいいです。アカデミー賞の作品賞にノミネートされましたが、受賞したのは「レベッカ」の方でした。ちなみに主人公がロンドンで宿泊するのは当時の有名ホテルでカールトンThe Carlton、昼食会の会場はロンドンを代表するホテルのサヴォイThe Savoyです。どちらも格式ある高級ホテル。フランス料理発展の立役者として名高いオーギュスト・エスコフィエが、セザール・リッツ[4]スイス出身の実業家でホテル王に頼まれて最初に料理長を務めたのがホテル・サヴォイ、その後カールトン[5]1940年の空襲で被災しその後取り壊されましたでは20年の間レストランの運営を担っていました。
③逃走迷路/Saboteur
原題はフランス語由来の妨害工作を行う者を意味する単語です。同じくフランス語由来で「サボる」の語源となったsabotageに類似します。しかし、ヒッチコックはこれより前に別ストーリーの”Sabotage”(1936年制作・日本では劇場未公開)という、ジョゼフ・コンラッドJoseph Conrad[6]映画「地獄の黙示録」”Apocalypse Now”の元ネタとなった「闇の奥」”Heart of Darkness”も有名の小説「シークレット・エージェント」”The Secret Agent”が原作の映画を製作済みだったため、違うタイトルになっています。この映画のsabotageは破壊活動のことです。「逃走迷路」は第二次世界大戦中の1942年の作品で、ヒッチコックお得意の巻き込まれものです。バリー・ケイン(ロバート・カミングスRobert Cummings、「ダイヤルMを廻せ!」”Dial M for Murder”にも出演)は自分の働く軍用機工場での放火の濡れ衣を着せられます。火災が起きた際に親友のメイソンに渡した消火器の中身がガソリンに詰め替えられていたのです。真犯人と思われる男フライを追いかけてバリーの逃避行が始まります。フライの足取りを追いながら逆に警察からは追跡されるという展開。知り合った娘パット・マーティン(プリシラ・レインPriscilla Lane)の手助けを受けつつ、たびたび危機に陥っては機知で抜け出すというパターンはサスペンス映画の典型といえます。何しろラストの自由の女神象での対決がスリル満点。手を伸ばして上着の袖を掴んで…。ドキドキ感がいつまでも印象に残る素晴らしい場面です。でもそれだけでなく、橋の上のトラック運転手や「レディオシティ・ミュージックホール」”Radio City Music Hall”での映画のシーンも凄くいい。学生のころ、ロサンゼルス北郊のグレンデールGlendaleという町で知人の家に1か月ほど滞在していたことがありました。その後にこの映画を見て、発端となる軍用機工場の所在地がグレンデールだと知り、ちょっと親近感を覚えたものです。ちなみに映画の最後に写される文字はThe End でなくfinisというラテン語でした。