休眠状態の姿から総称して「球根」と呼ばれるものの中で、茎が養分を蓄えて肥大し球状になったものを「球茎」といいます。秋植えの球根植物フリージアFreesia refractaもそのひとつです。土の中に植え付けると、球茎から平たく重なり合った葉が少しずつ伸びていって、細長くて尖った葉の間から徐々に茎が顔を出します。やがてその先がアーチ状に曲がったところにかたまって花芽がつき、香りのある小ぶりでトランペット型をした6から12個の花が並んで咲くでしょう。フリージアがヨーロッパに紹介されたのは比較的新しく、19世紀後半のことです。もたらしたのは、薬剤師として南アフリカに長く住み、植物の収集と研究をおこなったデンマークのクリスチャン・フリドリク・エクロンという人。彼の友人でドイツ人の医師でもあり植物学者でもあるフレーゼの名をとってフリージアとしました。エクロンは珍しいアフリカの植物をたくさん採集し、2,000近くの種に名前を付けたといわれます。学名というのは、世界共通の名称とするために、二名法と呼ばれるラテン語化された属名と種小名によって付けるものです。名称は命名者が自由に考えるもので、フリージアのように命名者が自分や知人などほかの人の名前を種小名にすることもあります。また、種小名のあとに命名者の名前をつなげる場合もあり、その数が多くなると命名者は略して表記されるように。例えば二名法による分類を生み出したリンネの場合はL.でエクロンの場合はEckl.です。
フリージアは、ヨーロッパに紹介されるとすぐに人気者になり幅広く交配が行われることになります。花色はもともと白と黄色でしたが、ピンク、紫、オレンジなどと豊富になりました。現在日本で栽培されているものはすべてが交配種です。
フリージアはアフリカ大陸の南東部に自生していて、その多くは南アフリカ共和国のケープ州で見られます。ケープ州とは、アフリカ大陸南西端[1]最南端はアガラス岬として有名な喜望峰のあるところです。コロンブスの新世界発見の少し前の15世紀末、ポルトガル王ジョアン2世は、アフリカの奥地にいるというキリスト教王プレステ・ジョアンの探索とインドへの到達を目的に、2つのルートで探検隊を派遣します。ひとつは地中海から紅海を経由しインド洋へ向かうもの、そしてもうひとつは西アフリカから南下してアフリカ大陸を回り込み東へ進むものです。後者の艦隊を率いたのがバルトロメウ・ディアスで、1487年にリスボンを出港しました。アフリカの陸地沿いに南へ南へ航海を続けていったところ、激しい嵐に遭遇し漂流してしまいます。陸地が見えるとこまで戻ると、いつの間にか陸が西側にあることに気づき、アフリカ大陸の南端を過ぎたとわかりました。ディアスは、周囲の探索を繰り返して、インド洋への出口を突き止めたと確信し帰路につきます。その時に見つけた、南へ長く張り出した岬に嵐の岬cabo das Tormentasと名付けました。報告を受けたジョアン2世は、アフリカ進出とインド航路開発へ積極的に乗り出すことを決め、ディアスの発見した岬をCabo da Boa Esperança(英語名Cape of Good Hope)と改名します。日本語では喜望峰ですが、よい希望で喜の字をあてたと推測できるものの、なぜ峰なのかは不明です。ポルトガルはスペインとの間に新領土の帰属を取り決めるトデシリャス条約を結び、どんどんと東へ向かうことになります。そしてポルトガル人が、種子島に到着したのは1543年のことです。
References
↑1 | 最南端はアガラス岬 |
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