チェコ共和国の首都プラハPraha(英語名Prague)は、その歴史ある町並みから「百塔の街」、「黄金のプラハ」などと形容される中央ヨーロッパ随一の美しい都市です。町の中心部分は「プラハ歴史地区」として世界遺産に登録されています。その町の象徴が丘の上にそびえるプラハ城です。9世紀創建の壮大な城は、かつてはボヘミア王や神聖ローマ皇帝の居城でもあり、現在は大統領官邸があります。数多い城内の建築物で、ひときわ目立つのが聖ヴィート大聖堂。4世紀に殉教した聖人ヴィトゥスを祀る教会は、チェコ最大であるとともに、もっとも重要な存在でもあります。
プラハの町の真ん中を流れるのが、チェコの作曲家ベドルジヒ・スメタナの「わが祖国」でも知られるヴルタヴァ(モルダウ)川です。この川に架かり、城の丘のふもとと旧市街をつなぐのがカレル橋。洪水によって破壊された橋を架けなおすために、1357年、神聖ローマ皇帝カール4世(ボヘミア王カレル1世)の命で着工しました。長さ516m、幅約10mの橋の欄干には両側に15体ずつの聖人をかたどった彫像が並びます。
英語にdefenestrationという単語があります。窓からものを放り投げる行為を指しますが、いったいいつ使うんだろうと思うような言葉です。少なくとも小生は、プラハで2度[1]3度とする場合もあります発生した歴史的事件以外で目にしたことはありません。日本語では「プラハ窓外放出事件」(チェコ語:Pražská defenestrace)といいます。最初の事件が起こったのは1419年です。プラハでは、宗教改革者でプラハ大学教授だったヨハネス・フスが1415年に処刑された後も、彼の遺志を継ぐ人々が弾圧に負けず活動を続けていました。7月30日、フス派の群衆が抗議の行進をしているところへ新市庁舎から石が投げられたことから、一部が暴徒化して市庁舎内になだれ込み、市長と裁判官、市議合わせて7名を窓から放り投げて死なせたというもの。これが契機となってフス戦争がはじまります。フス戦争は単なる宗教戦争ではなく、神聖ローマ帝国の支配に不満を持つボヘミアの反乱です。結果的にカトリック側の勝利で終わったようにみえるものの、帝国の衰退を示すことにもなりました。
1555年にアウグスブルク宗教和議において信仰属地主義[2]領主に領地内の信仰決定権があるとする考え方が認められたことにより、帝国内でもカトリックとプロテスタントの融和政策がとられていましたが、1617年にカトリック強硬派のフェルディナンド2世[3]後の神聖ローマ皇帝がボヘミア王になると、プロテスタントへの圧迫を強化します。チャペルの建設や集会を禁止するなど迫害を受けたプロテスタントは、1618年5月23日に2度目の事件を起こします。王の代理としてプラハ城へやってきた2名のカトリック派伯爵とひとりの書記官を、プロテスタント側の代表団が城の窓から投げ落としたのです。このことが三十年戦争の発端となりました。中央ヨーロッパを主戦場とした宗教戦争は全ヨーロッパへと拡大し、参戦した各国は疲弊し荒廃します。ハプスブルク家は弱体化していき、帝国の解体へとつながるのです。
実は、窓から人を放り出して殺すのは、中世にはそこまで珍しいことではなく、殺人のひとつの手段と考えられます。プラハの2つの事件は、その後の戦争の端緒となったことから大きく扱われているのでしょう。
プラハ新市街にアルクロンHotel Alcronという高級ホテルがあります。現在の建物は再建されて1998年に開業したものです。ここには1932年創業の同名ホテルがありました。チェコスロバキアの建築家で実業家のアロイス・クロフタAlois Kroftaが建てたものです。当時はプラハで最も洗練されたホテルとして、チャップリンやチャーチルといった著名人が滞在したとのこと。1948年には国の共産化に合わせてホテルは接収され国営となり、ビロード革命による民主化移行後の1990年に廃業。今あるのは海外資本によるホテルです。
1980年代に何度か宿泊しましたが、レストランでは朝食の時からひな壇に並んだオーケストラの生演奏があり、レストランへ入って来たのが日本人だと分かると、「さくら さくら」を披露してくれました。