ペトラ / Petra

砂漠の向こうに大きな岩の壁が見えます。その間にあるシクと呼ばれる狭い道へ入り、両側を高さ100mはあろうかという岩肌に挟まれるようなかたちで奥へ奥へと進んでいきましょう。すると、急に目の前が開け、飛び込んでくるのは鮮やかなアカネ色の建物。建物といっても、磨崖仏のように砂岩の表面に彫られたファサードです。ここは中東のヨルダン[1]ヨルダン・ハシェミット王国にある古代ナバテア王国時代の遺跡ペトラPetra。その遺跡の中で最も美しいとされるのが宝物庫を意味する、アル・ハズネAl khaznehと名付けられたこの建造物です。映画「インディ・ジョーンズ最後の聖戦」(1989年日本公開・スティーブン・スピルバーグ監督)[2]原題はIndiana Jones and the Last Crusadeで、聖戦ではなく十字軍で山場の舞台となる撮影場所として知られています。その色は光の当たり方によっても変化しますが、施された細かな装飾の精微な陰影とまわりの荒々しい岩の表面とのコントラストが訪れた人の目を奪うでしょう。中東に数多く残る古代遺跡の中でも特に印象に残る素晴らしい場所です。

ナバテア王国というのは、もともとアラビア半島の遊牧民の一部族が紀元前3世紀ごろから定住し、現在のヨルダンやサウジアラビアの北部、シナイ半島辺りを支配した国です。その中心都市ペトラは、外敵から守りやすい岩山に囲まれた立地にあり、砂漠の中の水源を確保していたことから、隊商たちの交易路の中継地として栄えました。アラビア半島南部からの香料や乳香[3]香料の原料となる樹脂の通り道として、また中国、インドからの航路が終わるアカバ湾からヨーロッパ方面への積出港となるガザへの最後の逗留地となったのです。しかし、紀元1世紀になると交易路は、陸路はバグダッドからパルミラ[4]シリア中部の古代隊商都市を経由して地中海へ抜けるルート、海路は紅海からアレキサンドリア方面へ向かうルートに移っていき、ナバテアの衰退がはじまりました。そして、紀元106年にローマ帝国[5]トラヤヌス帝によってローマが最大版図を拡げたころに征服され属州となりますが、363年の大地震によって破壊されたペトラは、かつての隆盛を取り戻すことがないまま、紀元700年ごろに終焉を迎えたようです。

岩山の隊商都市はそのまま忘れ去られていたものの、1812年にスイスの探検家ブルクハルトにより再発見され、本格的な発掘も行われるようになりました。それでも専門家の中にはまだこの都市の85%は砂の中に埋もれているという人もいて、全貌がわかるにはさらに長い時間が必要かもしれません。
この都市は、ナバテア時代にはラケムあるいはラケモと呼ばれていたとされます。のちにギリシャ語で岩を意味するペトラΠέτραと名付けられました。イエスの弟子のひとりで初代教皇の聖ペテロも同じ語源です。ガリラヤ湖の漁師であった彼の本当の名はシモンといいます。イエスにアラム語で岩の意味のケファと呼ばれるようになりました。これをギリシャ語訳にしたのがペテロ。なぜ人の名前なのに訳す必要があるかというと、マタイによる福音書の第16章18-19節[6]日本聖書協会1955年改訳には、イエスが「あなたはペテロである。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう」「わたしはあなたに天国のかぎを授けよう」と言う重要な場面があり、これを理解する必要があったからです。新約聖書は当時の東地中海の共通語といえる、コイネーという古代ギリシャ語で書かれています。

ペトラの遺跡の手前にワディ・ムーサという村があります。ワディとは涸れ川、ムーサはモーセのことです。ここにはモーセの泉という場所があって、建物の中でレンガに囲まれた岩と泉が見られます。イスラエルの民を率いてエジプトを脱出し、シナイ山で十戒を授かり約束の地カナンへと向かっていく途中、モーセと兄アロンはこの場所で、民衆から水がないという不満をぶつけられます。神から「岩に命じて水を出させなさい」と言われ、モーセが杖で岩を二度叩くと水が湧き出しました。[7]民数記 第20章2-13節ところが、神は岩に言葉で命じるように言ったのに、杖で叩いたことは神を敬わなかったこととして、彼らは約束の地に入ることは出来ないと告げます。[8]申命記 第32章51-52節アロンはペトラ近くのホル山で亡くなり、モーセはカナンの地を見渡すネボ山で最期を迎えました。

岩から水を打ち出すモーセ(ヨルダーンス画)
ネボ山の山頂 モーセを象徴する青銅の蛇が絡んだ杖のモニュメント

References

References
1 ヨルダン・ハシェミット王国
2 原題はIndiana Jones and the Last Crusadeで、聖戦ではなく十字軍
3 香料の原料となる樹脂
4 シリア中部の古代隊商都市
5 トラヤヌス帝によってローマが最大版図を拡げたころ
6 日本聖書協会1955年改訳
7 民数記 第20章2-13節
8 申命記 第32章51-52節