アガサ・クリスティの描く英雄義人として知られているのが、小さな灰色の(脳)細胞little gray cells[1]単に細胞で脳細胞を特定していないを駆使して難事件を解決する名探偵エルキュール・ポアロです。33の長編小説と53の短編小説、戯曲「ブラック・コーヒー」”Black Coffee”に登場します。テレビシリーズのデヴィット・スーシェや映画のピーター・ユスチノフのイメージが強くてでっぷりと太った肥満体系を思い浮かべてしまいますが、アガサの描くポアロはお腹は出ているものの小柄[2]身長は5フィート4インチを超えない、つまり162cm程度。作品中では、ポアロの生い立ちや家族について説明されている部分はほとんど見当たりません。でも、「ビッグ4」”The Big Four”では、彼はベルギー南部アルデンヌ地方にある温泉保養地スパSpa[3]Spa-Francorchampsスパ・フランコルシャンのサーキットでも有名あるいはその近郊の出身であるような記述がみられます。それと、ポアロの双子の兄弟と思しきアシールAchilleなる人物が登場。これは明らかにシャーロック・ホームズを意識した ご愛嬌といったところでしょう。小説の中にはポアロの食生活も描かれています。ベルギー人らしくコンチネンタル・ブレックファストを好み、卵料理はゆで卵を2個、しかもきっちり同じ大きさで。ビールや紅茶は飲まずに甘いRed currant赤スグリ[4]フランス語groseilleグロセイユかBlack currant黒スグリ[5]フランス語cassisカシスのシロップやCrème de mentheクレーム・ドゥ・マント[6]ミントのリキュール・緑と白がある・フランスやイタリアではアルコールの入っていないミントシロップも夏の飲み物として人気それにココア[7]英語ではHot chocolate、イギリスではHot cocoaホト・コーコーというを飲んでいます。加えてよく飲むのがTisaneティザン、所謂ハーブティーです。
ポアロが謎解きに挑んだお話の中から好きなものをいくつか、蘊蓄を傾けながらご紹介。(内容は早川書房版をベースにしています)
※( )内は本国での刊行年
◆杉の柩 Sad Cypress(1940年)
原語版だと、エピグラフ(題辞)のところに以下のようなシェイクスピアの「十二夜」から引用した道化の歌があり、本のタイトルがそこから取られていることがわかります。でも早川書房のクリスティー文庫版には掲載されていないような…。(以下、日本語は拙訳)
Come away, come away, death,
来るがいい、来るがいい、死よ
And in sad cypress let me be laid;
糸杉の中に横たえておくれ
Fly away, fly away, breath!
飛び去れ、飛び去れ、息よ
I am slain by a fair cruel maid.
魅力的で残虐なあの娘に殺された
My shroud of white, stuck all with yew
イチイ[8]Taxus baccata、ヨーロッパイチイ、毒性があり庭の生垣など観賞用にされる・死と再生の象徴が詰まった白い死装束を
O prepare it;
用意しておくれ
My part of death no one so true;
誰よりも正直な者が死にゆくことを
Did share it.
伝えておくれ
Cypressなのでスギではなくイトスギなのですが、坪内逍遥や小田島雄志が”Sad Cypress”を「杉の柩」と翻訳しているのでそれを流用しているのでしょう。ちなみに河合洋一郎は「糸杉の棺」と訳しています。古くからヨーロッパで哀悼を意味して墓地に植える習慣があるイトスギでないと、「十二夜」の場合は意味が伝わりません。個人的には、樹種ひとつでも正しい単語をあてなければいけないと思います。でもアガサの小説に関しては、ストーリー、特に謎解きとは無関係なので良しとしましょうか。十二夜というのは、クリスマスから十二日目の1月5日のことです。1月6日は東方の三博士がイエスを礼拝したとされる公現祭。その前夜を祝います。
さて、小説の中身です。エリノア・カーライルが殺人容疑をかけられます。彼女が作ったサンドイッチを食べたメアリイ・ジェラードがモルヒネ中毒で死んだからです。無実を信じる医師のピーターから依頼を受けたポアロが、その疑いを晴らすべく調査に乗り出すというお話。
エリノアには裕福な叔母ローラがいました。彼女は従兄で婚約者のロディー・ウェルマンと共に、体調がすぐれないローラの住むハンターベリーを訪ねます。そこには美しい門番の娘メアリーが。ロディーは10年ぶりに会ったメアリーに恋をして、エリノアとの婚約を破棄します。そしてローラが亡くなり、全財産を引き継いだエリノアはハンターベリーの屋敷を売却。事件は邸内の片づけをしている最中に発生したのです。
凛々しく高潔な自立する女性エリノアの心の動きが細かく描写されていて、ついつい感情移入をしてしまいます。真犯人は誰なのか、動機は何なのか、どんな細工をしたのか、種明かしがとても楽しいです。
エリノアが自分の名前の由来を語り、自らフェア・ロザムンドの名を出す場面があります。エリノアとはイングランド王ヘンリー2世妃のEleanor of Aquitaine(アリエノール・ダキテーヌAliénor d’Aquitaine)[9]1137年-1204年・アキテーヌ公女で元フランス王ルイ7世妃・現在の西南フランスの広大なアキテーヌ公領を引き継いだのこと。イギリスでは、ヘンリー2世の愛人ロザムンドRosamund Clifford (The Fair Rosamund)を毒殺したという物語が有名です。
エリノアがつくったのはフィッシュペーストのサンドイッチです。日本では魚のすり身を揚げたり蒸したりして作る蒲鉾やさつま揚げといった練り物は一般的でも、ペースト状のものをそのまま食べることはあまりないでしょう。イギリスではサケ、イワシ、マグロ、ニシンなどを材料にしたペーストが瓶詰や缶詰で売られていて、サンドイッチやカナッペにして食べます。エリノアが乾物屋で買ったのはサケとアンチョビ、サケとエビのペーストでした。
事件解決の糸口になるのがZephirine Drouhinゼフィリーヌ・ドゥルーアンというツルバラです。
◆白昼の悪魔Evil Under the Sun(1941年)
南デヴォンのBurgh Island Hotelバラ・アイランド・ホテルは、フランスのモン・サン・ミシェルのように、干潮のときにだけ本土と陸続きになる小島にあります。潮が満ちているときに宿泊客を送迎するのは、トラクターと呼ぶ高床式の水上車です。アガサがこの作品の舞台となるSmagglerスマグラー(密輸船)島のJolly Roger Hotelジョリーロジャー(海賊旗)ホテルとしてイメージした場所[10]「そして誰もいなくなった」の舞台設定にも影響を与えたといわれるで、テレビシリーズ「名探偵ポワロ」での本作[11]#48の撮影に使われたところ。小説の中には地図が付いていて、遊歩道によって陸地とつながっていることになっています。閉鎖された空間に集まった人々、複雑な人間関係、巧妙なトリック、別の事件との関連性といったアガサ特有の練り込まれた構成です。
タイトルは旧約聖書の伝道の書[12]第6章1-2節に由来します。“There is an evil which I have seen under the sun, and it is common among men. A man to whom God hath given riches, wealth, and honour, so that he wanteth nothing for his soul of all that he desireth, yet God giveth him not power to eat thereof, but a stranger eateth it: this is vanity, and it is an evil disease.”「わたしは日の下に一つの悪のあるのを見た。これは人々の上に重い。すなわち神は富と、財産と誉(ほまれ)とを人に与えて、その心に慕うものを、一つも欠けることのないようにされる。しかし神は、その人にこれを持つことを許されないで、他人がこれを持つようになる。これは空(くう)である。悪しき病である」[13]日本聖書協会1955年改訳
つまり、欲しいものすべてを手に入れてもそれを費やすことができない人がいる一方、それを奪っていく他人がいて、それこそを悪としています。Evilは悪魔という物体ではなくて、悪意や邪悪といった心をあらわすものですね。まさしくポアロ自身が話す”There is evil everywhere under the sun.”「この世のどこにでも邪悪はあるのです」という言葉。英語でunder the sunというのは、「この世の」とか「世界中で」とかを意味します。タイトルは海浜リゾートの眩い太陽に引っ掛けているのでしょうが、このお話では日焼けも大事な要素なので、邦題は「白昼」ではなくそのまま「日の下」、「太陽の下」あるいは「炎天下」としたほうが良かったと思います。付け加えると、英語で白昼堂々というような場合の白昼はbroad daylightです。
物語は何やら様々な曰くがありそうなリゾートホテルの宿泊客たちの間で繰り広げられます。そして、島にあるピクシー湾の砂浜で元女優のアリーナ・マーシャルが死体で見つかり、休暇で訪れていたはずのポアロの出番となるのです。ホテルに滞在している誰かが犯人なのはほぼ間違いありません。そこにはアリーナと不倫関係のパトリック、それに気づいた妻のクリスチン、アリーナの夫ケネスの元恋人ロザモンド、アリーナを嫌っている義理の娘リンダ、アリーナに対して遺恨を残すエミリーなどが。事件発生を受けてホテルへやって来た州警察本部長のウェストン警視正に対して、久しぶりに会ったポアロは「セントルーの事件以来だ」と言います。セントルーというのは、「邪悪の家」”Peril at End House”(1932年)の舞台です。
この小説は1982年にピーター・ユスチノフをポアロ役に据えて映画化されました。舞台はイギリスではなくアドリア海の架空の島に変更されていますが、何故か邦題は「地中海殺人事件」。
◆象は忘れないElephants Can Remember(1972年)
ポアロ最後の事件となる「カーテン」Curtainは1975年の出版ではあるものの、すでに40年代に書かれて保管されており、アガサの死後に発表される予定だったとされるため、この小説が彼女の最後に執筆したポアロ作品です。
しかし、ポアロは最初に登場した「スタイルズ荘の怪事件」”The Mysterious Affair at Styles”(1920年)の時点で、ベルギー警察で署長まで勤め上げてイギリスへ亡命してきたことになっています。若く見積もっても50歳前後でしょう。この作品の舞台は出版と同じ1972年。相当な高齢なのは間違えありませんね。
このお話では、ポアロもので親しまれている、アガサ本人を投影したかの如き人気探偵作家ミセス・アリアドニ・オリヴァAriadne Oliverが活躍します。彼女は、文学者昼食会でミセス・バートン=コックスから息子の婚約者シリヤ・レイブンズクロフトについての頼まれごとをされます。ミセス・オリヴァがシリヤの名付け親だからです。シリヤの両親は14年前にコーンウォールの断崖の上で、ピストルで撃たれて亡くなっているのが発見されました。合意の上の心中なのか、夫が先に妻を撃って自殺したのかあるいは逆なのかが不明です。そこが重要なのだとか。ミセス・オリヴァは事件の真相を調べるため、象探しを始めることに。ここでの象とは、昔のことを覚えている記憶力の良い人という意味。タイトルは”An elephant never forgets”「象は決して忘れない」ということわざから取られています。インドで、仕立て屋に縫い針で鼻を刺された象が、その仕立て屋を覚えていて何年後かに仕返しをするという逸話が起源です。ミセス・オリヴァから助力を依頼されたポアロは調査を開始。精神科医、美容院経営者、二人の家庭教師などから話を聞いて過去を探るうちに少しずつ手掛かりが見つかります。なぜかつらが四つもあったのか?情報屋のミスター・ゴビーも登場。
本作でもスペンス警視が語っていますが、アガサの作品で過去の事件を掘り返す物語は「五匹の子豚」“Five Little Pigs”や「スリーピング・マーダー」”Sleeping Murder”[14]ミス・マープルものなのでスペンスは関係ないをはじめいくつもありますね。「ハロウィーン・パーティ」”Hallowe’en Party”もそのひとつで、お話の内容はちょっと気になるところがあるけれども、とにかく構成はとてもよくできていると思います。
ところで、ミセス・オリヴァが大好きなのはメレンゲmeringuesです。搾りだしてそのままオーブンで焼いただけのもの。つくり方は簡単なものの、ちょうどいい大きさ、色、硬さに揃えるのが案外難しかったりします。ミセス・オリヴァはメレンゲを嚙むときに入れ歯が気になるような…。
小説の最後での彼女の言葉が印象的です。
◆複数の時計The Clocks (1963年)
秘書とタイピストの派遣事務所に所属するシェイラ・ウェブは、速記者として指名されウイルブラーム・クレスント通り19番地へ向かいます。指示通りに室内へ入るとそこにはたくさんの置き時計、そして足元には見知らぬ男の死体が。慌てて飛び出した彼女を助けたのがMI5[15]英国情報部5課所属のコリン・ラムです。その後は普通の三人称の文体とコリン・ラムの一人称が入り混じるかたちで進むことに。住人の中年女性は盲目で、速記者を頼んだ覚えもなければ置き時計も全部自分のものではないと言います。この通りの周辺を探っていて死んだ、MI5部員が残したメモには三日月のマークと61 Mの文字。なぜシェイラが呼ばれたのか、置き時計には何の意味があるのか、検視審問の日にあることに気付いて殺されてしまうシェイラの同僚は何を伝えようとしたのか、怪しい隣人たちの動きは何か陰謀に関わるのか、多くの糸が絡み合う展開になっていき、それをポアロとコリンが解いてきます。
早川書房版で通り名のクレスントcrescentを新月と訳しているものの、実際は三日月のことです。知る限りでもロンドン市内にはRoyal CrescentやPark Crescentなど、その地名はいくつかあります。古代ローマの時代からの温泉保養地バースBath[16]ロンドンの約180㎞西にある、ロイヤル・クレスントRoyal Crescentいう三日月型になった18世紀建造のジョージア様式の美しい建物が有名です。
ポアロとコリンの会話の中では「リーヴェンワース事件」”The Leavenworthhe Case”[17]アンナ・キャサリン・グリーンの処女作・ニューヨークの警官エビニーザー・グライスが主人公、「アルセーヌ・ルパンの冒険」”Une aventure d’Arsène Lupin”[18]モーリス・ルブランの戯曲および小説、「黄色い部屋の秘密」”Le Mystère de la chambre jaune”[19]ガストン・ルルーの密室もの、「シャーロック・ホームズの冒険」”The Adventures of Sherlock Holmes”[20]コナン・ドイルの短編集といったいろいろなミステリー小説が登場。また、ポアロの謎解きのヒントとして「鏡の国のアリス」”Through the Looking-Glass, and What Alice Found There”の中のセイウチと大工”The Walrus and the Carpenter”[21]ロンドンのシティにはこの名前のパブがありますの一節が引用されています。
そして、ポアロの暗唱のかたちでアガサ作品ではお馴染みのマザーグースも二篇。
Dilly, dilly, dilly, dilly, come and be killed.
ディリィ、ディリィ、 ディリィ、 ディリィ殺されにおいで。
ボンド夫人が、今夜のおかずにするために鴨を捕まえようとしているという歌。ちょっと残酷です。
dilly, dillyというのは童謡などの合いの手のようなもので特段意味はありません。もともとイギリス民謡で童謡としても知られている「ラヴェンダーブルー」Lavender’s Blue[22]ディズニー映画「シンデレラ」では、子供のシンデレラが母親に歌ってもらっているには
Lavender blue, dilly, dilly
Lavender green…
のように歌われています。
このdilly dillyというフレーズは、アメリカではBud Lightバドライトというビールの中世をイメージした一連の広告の中で、「乾杯!」のような意味合いで2017年から使われました。第52回スーパーボウル[23]2018年2月4日・ニューイングランド・ペイトリオッツxフィラデルフィア・イーグルスをはじめNFLの中継放送でもコマーシャルとして流されるなど認知度が上がり、アメリカ全土で大流行してちょっとした社会現象になったようです。
For want of a nail the shoe was lost,
For want of a shoe the horse was lost,
For want of a horse the rider was lost,
For want of a rider the battle was lost,
For want of a battle the Kingdom was lost,
And all for the want of a horse shoe nail.
釘が一本足りずに蹄鉄が打てなくなった
蹄鉄がひとつ足りずに馬が走れなくなった
馬が一頭足りずに騎手が行かれなくなった
騎手がひとり足りずに戦えなくなった
戦いが一度足りずに王国がなくなった
すべては蹄鉄の釘が一本足りなかったから
大風が吹けば桶屋が儲かるというのとも少々意味合いが違うかも知れません。ほんの些細な事柄が回りまわってとんでもない大事に至るということ。言ってみれば注意一秒けが一生みたいな戒めでもあります。
この詩はベンジャミン・フランクリンも「プーア・リチャーズの暦」Poor Richard’s Almanackの中で引用しています。
ここで登場する61 Mの暗号は、「青列車の秘密」”The Mystery of the Blue Train”のイニシャルKや「オリエント急行の殺人」”Murder on the Orient Express”のイニシャルH、「二重の手がかり」”The Double Clue”のイニシャルBPと同じぐらいに、よく考えると読者にも分かるように作られているのかもしれないですね。
References
↑1 | 単に細胞で脳細胞を特定していない |
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↑2 | 身長は5フィート4インチを超えない、つまり162cm程度 |
↑3 | Spa-Francorchampsスパ・フランコルシャンのサーキットでも有名 |
↑4 | フランス語groseilleグロセイユ |
↑5 | フランス語cassisカシス |
↑6 | ミントのリキュール・緑と白がある・フランスやイタリアではアルコールの入っていないミントシロップも夏の飲み物として人気 |
↑7 | 英語ではHot chocolate、イギリスではHot cocoaホト・コーコーという |
↑8 | Taxus baccata、ヨーロッパイチイ、毒性があり庭の生垣など観賞用にされる・死と再生の象徴 |
↑9 | 1137年-1204年・アキテーヌ公女で元フランス王ルイ7世妃・現在の西南フランスの広大なアキテーヌ公領を引き継いだ |
↑10 | 「そして誰もいなくなった」の舞台設定にも影響を与えたといわれる |
↑11 | #48 |
↑12 | 第6章1-2節 |
↑13 | 日本聖書協会1955年改訳 |
↑14 | ミス・マープルものなのでスペンスは関係ない |
↑15 | 英国情報部5課 |
↑16 | ロンドンの約180㎞西 |
↑17 | アンナ・キャサリン・グリーンの処女作・ニューヨークの警官エビニーザー・グライスが主人公 |
↑18 | モーリス・ルブランの戯曲および小説 |
↑19 | ガストン・ルルーの密室もの |
↑20 | コナン・ドイルの短編集 |
↑21 | ロンドンのシティにはこの名前のパブがあります |
↑22 | ディズニー映画「シンデレラ」では、子供のシンデレラが母親に歌ってもらっている |
↑23 | 2018年2月4日・ニューイングランド・ペイトリオッツxフィラデルフィア・イーグルス |