ポアロ席巻

ベルギー人の名探偵エルキュール・ポアロが見事に事件を解決するお話の中からお薦めをご紹介。テレビシリーズ「名探偵ポワロ」のデヴィッド・スーシェの姿でイメージが出来上がってしまっていると思われますが、以前にも書いている通り、小説に登場するポアロは身長が5フィート4インチ(約162cm)と非常に小柄です。卵形の頭をしているものの、禿げてはいません。そしてでっぷりとした肥満体系でもありません。少し頭の中の映像を変化させてみるといいでしょう。(内容は早川書房版をベースにしています)

ゴルフ場殺人事件The Murder on the Links(1923年)
ポアロのデビュー作「スタイルズ荘の怪事件」The Mysterious Affair at Stylesの発表から3年後に出版されたポアロもの第2作です[1]1922年にトミーとタペンスの「秘密機関」The Secret Adversaryが刊行されているので、アガサの作品としては第3作
linksリンクスは、もともとスコットランドの海岸近くの砂丘を意味する言葉で、それに続く草原がlinkslandリンクスランドです。ゴルフはこのリンクスやリンクスランドで行われていたことから、ゴルフコース自体がそう呼ばれるようになりました。そのため、本来は海岸線に設計されたゴルフ場という意味だったリンクスが、今ではスコットランドに限らずすべてのゴルフ場を示す単語になっています。日本では海沿いのコースに限って使われるようですが。

このお話は、ストーリーテラーであるヘイスティングズが、パリからカレーへ向かう列車のコンパートメントで若い女性と出会うところからはじまります。彼女はシンデレラと名乗りました。
ポアロのもとには、南米で成功した実業家ポール・ルノーから、急いでフランスの自宅まで来てほしい旨の手紙が届きます。ポアロとヘイスティングズはブローニュとカレーの中間ぐらいに位置する設定の高級リゾート地、メルランヴィル・シュル・メールへ向かうことになるのです。シュル・メールsur merとは海の上、つまり海沿いの町ということ。ルノワールゆかりのカーニュ・シュル・メールやジャン・コクトーの壁画で有名なヴィルフランシュ・シュル・メールをはじめ、フランス国内にはたくさんのシュル・メールがあります。
二人がルノー宅に着いてみると、すでに彼はその朝に殺害されていました。場所は近くで建設中のゴルフ場のバンカーです。ポアロたちは、早速、屋敷の使用人やルノー夫人から話を聞くことから始めて事件を調べることに。隣家に娘のマルトと共に住むドーブルーユ夫人には何やら秘密がありそうです。またポアロは彼女の写真を以前にどこかで見た気がします。その最中にヘイスティングズは「シンデレラ」と偶然に再会。一体彼女は何者なんでしょうか。警察は、南米へ向かったはずがメルランヴィルに舞い戻ってきた、ルノーの息子ジャックを疑っています。さらに二人目の死体が発見され、捜査を進めると20年ほど前に起きた殺人事件との関連性があるような…。
単に事件の謎解きというだけではなく、同時進行するポアロとパリ警視庁のジロー刑事との推理対決も楽しめます。それと、ヘイスティングズのその後の人生に大きく関わるであろう恋物語も目が離せないところです。
早川書房版では、22章「恋に落ちて」でポアロが「日本の力士の問題で力を貸してやった…」とあります。何のことだかすごく気になるのですが、原語ではJapanese wrestlerなので、相撲なのかははっきりしないところです。


●雲をつかむ死Death in the Clouds(1935年)
アメリカで最初に出版された際には、Death in the Airだったそうです。in the airだと「飛行中の」、「機上の」という意味にもなるので、タイトルとしてはしっくりきます。それでもin the clouds「雲の中で」とした方が、謎のある感じでいいですよね。
事件は、パリのル・ブルージュLe Bourget空港(LBG[2]国際航空運送協会による空港のスリーレターコード)からロンドンのクロイドンCroydon空港(コードなし)へ向かう旅客機の中で発生します。ル・ブルージュは1932年にオルリー空港ができるまでパリの空の玄関口として機能していた、パリ最初の国際空港でした。現在では、パリの定期便はオルリー(ORY)とロワシー(シャルル・ドゥ・ゴール)(CDG)の両空港で運行されており、ル・ブルージュは臨時便の発着や、隔年で開催される国際航空ショーの会場として使われています。かつてヨーロッパ内のプライベートジェットの企画に携わった際に、現地の拠点としたのがこの空港でした。少しばかり思い入れがあります。ロンドンのクロイドンという地名は、大ロンドンGreater Londonの特別区のひとつで、中心部から南へ10㎞ほどの場所のこと。第一次世界大戦中から1959年の閉鎖までロンドンの主要空港として活躍しました。世界初の航空交通管制(ATC)を導入したことで知られます。2023年時点でロンドンと名前の付く定期便運航の空港は6か所です。その中でクロイドン同様にロンドン中心部近くに位置するのがシティ空港(LCY)。テムズ河畔に再開発されたドックランズ地区[3]ロンドン西部・グリニッチ天文台などもあるにあります。規模が小さいので、ヒースロー(LHW)やガトウィック(LGW)とは比較にならないぐらい運航便数は少ないです。一度だけアントワープからの便で利用したことがあり、なにしろ短時間でロンドン市内の目的地に向かうことができるので、とっても便利で特に出張者にとっては利用価値が高いと思いました。
さて、ル・ブルージュを離陸したプロメテウス号の客室は前後に分かれていて、後部客室には18の座席にポアロを含めて11人の乗客が搭乗しています。当時この区間を就航していたのは英仏両国の航空会社ですが、乗員がイギリス人なのでインペリアル・エアウェイズをモデルにしているのでしょう。機材は本に示されたシートチャートから推定される座席数から、恐らく四発プロペラのハンドリーペイジH.P42W/H.P45ヘラクレス級かと思われます。ちなみに2004年初版、早川書房版の紀田順一郎の解説では、機種をDC-3に断定していました。イギリスとフランスの航空会社は導入したことのない機種なので至極残念な推理です。

左:ハンドリーペイジH.P42W/H.P45 / 右:ロンドン・シティー空港

プロメテウス号がクロイドンに到着する少し前に、乗客のマダム・ジゼルが座席で亡くなっているのが発見されました。彼女の首のところには小さな刺し傷が。飛行中の機内ではハチwaspが唸りながら飛んでいたのが目撃されています。そのハチの仕業なのか。一般に、beeがミツバチやクマバチなどの、花の蜜を吸うハナバチを指すのに対して、waspはスズメバチやアシナガバチといった針を刺して獲物を捕食するカリバチのことを示します。アメリカでは、WASPがアングロサクソン系プロテスタントの白人を意味する言葉でもあるので、代わりにyellowjacketイエロージャケットと呼ばれることも多いです。実は機内のハチは、考古学者アルマン・デュポンと同乗していた息子ジャンが上手に殺していました。スズメバチのようなちょっと恐ろしいハチを簡単にやっつけるのは凄いですね。
調べてみると、マダム・ジゼルの足元には南米だかボルネオの民族が使う吹矢の針が落ちています。どうやらハチではなく、その針に塗られた毒によって誰かに殺されたようです。当然のことながら犯人は乗客に2人のスチュワードを加えた12人のうちの誰か。毒矢を見つけたポアロは、”Mais enfin! Est-ce que c’est possible?”「まさか!そんなことあり得るの?」と言います。明らかにこの状況はおかしいと気付いたわけです。フランス語の”Mais enfin!”メザンファンは英語の”Come on!”のように「なんてことだ」とか「冗談じゃないよ」のような使われ方をします。そして、吹矢筒がポアロの座っていた座席の背後で見つかりますが、それを狭い機内で誰にも見られずに使うことなど可能なこととは思えません。こうして、ポアロはジャップ警部とフランス警察のフルニエとともに事件解明のための捜査に乗り出すのです。フルニエは、「ゴルフ場殺人事件」の際にポアロが対峙したジローからポアロのことを聞いているといいます。ポアロがジローに関して述懐する場面では、ジローを猟犬に例えて「燻製ニシン(レッドヘリング)のあとを追っている」と言っているのですが、ここは訳註なりを入れない限りサラッと流れてしまうのではないでしょうか。red herringとは燻製にすることで赤茶色になったニシンのことです。でもこの言葉には、かつて猟犬を訓練するために燻製ニシンを引きずって獲物とは別の方向へ匂いを付けたことから、囮や偽装工作の意味があり、特にミステリーでは読者を間違った推理に導くための情報を表すものとして使われます。アガサもすこぶる得意とするところ。ポアロは見たものだけを信じて誤った方向へ進んでしまうことに警告をしているのです。要するに、ハチや吹矢といった目の前の手掛かりに頼っていては、惑わされて本質に辿り着けなくなるという意味のことを言っています。第8章では全員の持ち物がリストにされていて、その中に何かしら解決のヒントがあるようです。

ポアロは捜査中にいら立っているフルニエにこう言います。‘The stomach calls. A simple but satisfying meal, that is what I prescribe. Let us say omelette aux champignons, sole à la Normande—a cheese of Port Salut, and with it red wine. What wine exactly?’「胃袋が呼んでいる。私が組み合わせる普通だけど満足のいく食事を。マッシュル-ム・オムレツ、ノルマンディー風舌平目、ポール・サリュのチーズ、それに赤ワインという感じで。ワインは何がいいかな」。ノルマンディー風の舌平目というのは、エビやムール貝の剥き身とマッシュルームを入れたクリームソースで食べるもの。ポール・サリュはロワール地方のセミソフトタイプのチーズで、トラピスト会修道士によって生み出されたことから、トラピスト・チーズ[4]フランスにはもうひとつSaint-Paulinサン・ポーランという有名なトラピスト・チーズがあるとも呼ばれます。日本ではあまり目にしたことがありません。胃袋を満たしてから落ち着いて推理すれば、雲の中に紛れている真相が見えてくるかも。

右:ノルマンディー風舌平目

●エッジウェア卿の死Lord Edgware Dies(1933年)
ポアロとヘイスティングズは、いまロンドンで大人気の女優カーロッタ・アダムズの舞台を観に行きました。彼女はいくつかの寸劇で多種多様な男女の役をひとりで演じて観客を魅了し、演目の最後は得意のものまねです。メイクをすることなく容貌を変化させて、高名な政治家や誰もが知る女優や社交界の名花に扮します。その終わりに披露したのは、ロンドンでも有名な才能あふれるアメリカ人女優のジェーン・ウィルキンスン。ジェーンは、富豪のエッジウェア卿と結婚して一度は引退しました。しかし、すぐに夫の元を離れて女優に復帰し、また人気を博しています。舞台の後で二人は夕食のためにサヴォイ・ホテル[5]由緒あるデラックス・ホテルで、同じ経営だったサヴォイ劇場をはじめ周辺には劇場が多いへ。なんと隣のテーブルにはエッジウェア卿夫人ジェーンとその連れが。さらにその先のテーブルに現れたのがカーロッタです。ポアロたちがジェーンに請われて彼女の部屋へ行くと、叫ぶようにこう言われます。
“M.Poirot, somehow or other I’ve just got to get rid of my husband!”「ポアロさん。私は、何としてでも夫と縁を切らなければならないんです」
somehowだけだと「なんとなく」ですが、or otherが付くと強調されて「どうにかして、何とかして」になり、get rid ofには(嫌な奴を)「追い払う」とか(面倒なことから)「解放される」というような意味があります。つまりかなり強い意志が込められた言葉ということ。
図らずも彼女の依頼を受けることにしたポアロはエッジウェア卿と面会しました。ところが、彼はすでに離婚を受け入れることを決めて、6ヶ月も前にその旨の手紙をジェーンへ送ったのだとか。ポアロがジェーンにそれを伝えると、離婚承諾を喜ぶものの、手紙は受け取っていないと言います。一件落着のようでも、ポアロには手紙のことが気がかりです。すると翌朝、ポアロの自宅へ訪ねて来たジャップ警部が告げたのは、エッジウェア卿が夫人に殺害されたということでした。しかしながら、調べてみると彼女には名士が集う晩餐会に出席していたという完璧なアリバイが。しかも彼女は周囲の人たちに晩餐会へは行かないと伝えていたのに、気が変わって参加することにしたのだそうです。晩餐会へ行っていないと思った誰かが、ジェーンに罪を着せるために仕組んだのでしょうか。カーロッタが一役買っていると睨んだポアロは彼女のもとへ向かいます。ところが、一足遅く彼女は薬物過剰摂取で亡くなっていました。数々の重要な証言に証拠の品々。ここにも燻製ニシンがいます。はてさて名探偵の推理やいかに。

上流の方々が揃ったクラリッジズ[6]昔から食事が有名なロンドンのデラックスホテルでの昼食会。誰かが言ったjudgement of Paris「パリスの審判[7]トロイア戦争の端緒となったギリシャ神話の中の物語」という言葉にすかさず反応したジェーンが声を上げます。
“Why, Paris doesn’t cut any ice nowadays. It’s London and New York that count”「あら、パリなんて今じゃなんの影響力もありませんわ。ロンドンやニューヨークが重要ですもの」
not cut any iceやcut no iceは、アイススケートの刃が氷の上に跡を残さない、つまり切れ味が悪いということから、「無駄である」や「大事ではない」という意味です。
「パリスの審判」を知らずに、ジェーンが無教養をさらけ出して場を凍りつかせる場面ですが、後にこれが意味を持っていたことがわかります。ちなみに、1976年にパリで開催された一流のワイン関係者によるフランス産とカリフォルニア産のワインの飲み比べコンテストで、白も赤もカリフォルニア産が1位になり、その後のワイン業界を一変させるようになった事件もJudgement of Parisとして有名です。日本語にするとパリスとパリになってしまうんですけどね。

「パリスの審判」いずれもペーター・パウル・ルーベンス画

実はこの作品は、アメリカで出版された際のタイトルThirteen at Dinner「13人での夕食」として1985年にテレビドラマ化されています。ポアロ役の主演は「ナイル殺人事件」や「地中海殺人事件」などの映画でもポアロを演じたピーター・ユスチノフ。そして、なんとジャップ警部役がデヴィット・スーシェ!。「13人の夕食」とはジェーンが出席した晩餐会のこと。当初は14人の予定が、ひとりがすっぽかして13人になってしまったのだそうです。なお、早川書房版とは別に、東京創元社から出版されているこの小説は「晩餐会の13人[8]厚木淳訳・1975年初版」というタイトル。

欧米、取り分けキリスト教世界では、13人で食卓を囲むことはタブーとされています。理由はイエスが所謂「最後の晩餐」で12人の弟子とともに食事をして、そのうちのひとりイスカリオテのユダが裏切ったことでイエスが処刑されたからです。それだけでなく、13日の金曜日を筆頭に、13という数字そのものが忌み嫌われてもいますね。もちろん迷信ですけど、ホテルの13号室やレストランの13番テーブルがなかったりというのは一般的。そこをあてがわれたお客様が文句を言うであろうことが目に見えているからです。ちなみに13と金曜日を組み合わせたのは、イエスが処刑されたのが金曜日だから。ユダヤ教では土曜日が安息日(あんそくにち)[9]神が天地創造を6日間で終えて7日目に休んだことから、何もしてはならない日として定められているで、その前の最後の仕事として金曜の夕刻に罪人の処刑をしていました。そして、当日を含めて数えた3日目の日曜日にイエスは復活したのです。

「最後の晩餐」レオナルド・ダ・ヴィンチ画

ポアロは、「葬儀を終えて」After the Funeral(1953年)の中でミスター・ゴビー[10]ポアロがあれこれ調査を頼む私立探偵にこの事件を忘れることができないと語り、危うく敗北するところだったと述べています。


References

References
1 1922年にトミーとタペンスの「秘密機関」The Secret Adversaryが刊行されているので、アガサの作品としては第3作
2 国際航空運送協会による空港のスリーレターコード
3 ロンドン西部・グリニッチ天文台などもある
4 フランスにはもうひとつSaint-Paulinサン・ポーランという有名なトラピスト・チーズがある
5 由緒あるデラックス・ホテルで、同じ経営だったサヴォイ劇場をはじめ周辺には劇場が多い
6 昔から食事が有名なロンドンのデラックスホテル
7 トロイア戦争の端緒となったギリシャ神話の中の物語
8 厚木淳訳・1975年初版
9 神が天地創造を6日間で終えて7日目に休んだことから、何もしてはならない日として定められている
10 ポアロがあれこれ調査を頼む私立探偵