マルタ / Malta

マルタMaltaは地中海に浮かぶ島のひとつです。イタリアのシチリア島と北アフリカのチュニジアの間にある淡路島の半分ほどの大きさしかない小さな島。よくどこかの国の一部と間違われますが、ゴゾ、コミーノなど周囲の島々とともに構成されるれっきとした独立国です。第一次、第二次世界大戦では、領有していたイギリスの軍事拠点とされ、マルタは空爆にさらされ、周辺海域は何度も海戦の舞台となりました。マルタ国旗には、国民の勇敢さを称えるためにイギリスから贈られたジョージ・クロスが描かれています。
ちなみに、首都ヴァレッタとは湾を隔てた対岸に位置するカルカーラには、イギリス海軍の墓地があり、第一次世界大戦の際にこの地で命を落とした旧日本海軍の戦没者の墓石もあって、訪れる日本人観光客も多いようです。

左:マルタ国旗 / 右:タルシーン神殿遺跡 

マルタの歴史は古く、マルタ島とゴゾ島では、紀元前4,000年代から3,000年代に建造されたという巨石神殿の遺跡が多数発見されています。その独特な形状や装飾、高度な建築技術などが先史時代への興味をかきたてずにはいられません。現在までに7か所の遺跡が世界遺産に登録され、発掘調査がすすめられています。
おそらく、マルタの名とともによく知られているのは、中世にここに本拠が置かれていた聖ヨハネ騎士団の存在でしょう。もともと騎士団とは、十字軍の遠征により始まった聖地エルサレムへの巡礼者の保護と、地中海地域の領土を守るために修道会によって組織されたものでした。その後十字軍同様にさまざまな形へ変わっていき、ほとんどは本来の活動とは別の組織になってしまいます。聖ヨハネ騎士団は教皇からも公認され、テンプル騎士団やドイツ騎士団とならんで非常に強い力を誇っていました。ところが13世紀にはイスラム教徒の逆襲によって聖地を追われ、キプロス島へ逃れます。さらにロードス島を攻略して本拠を移したものの、ここもオスマン・トルコの手に落ち、追い出されてしまいました。そして、神聖ローマ皇帝カール5世によって与えられた領土がマルタです。ここでも騎士団はオスマン・トルコと戦いを繰り広げ、1565年の大包囲戦Great Siegeには甚大な被害を被りながらも攻撃に耐えて、逆にオスマン帝国へ打撃を与えます。このことがカトリック諸国の団結へとつながり、レパントの海戦[1]1571年10月7日での勝利へ導いたといわれます。大包囲戦後に、ヨーロッパ各国からの寄付によって建設された新しい都市がヴァレッタです。当時の騎士団長ジャン・ド・ヴァレットにちなんでその名が付けられました。聖ヨハネ騎士団は、18世紀の終わりにナポレオン・ボナパルトによって島を奪われ領土を失います。その後、騎士団が主権を維持していることが認められますが、マルタ島へ戻ることはなく、流転の歴史に終止符が打たれました。現在は、ローマ市内の高級ブランド店が軒を連ねるコンドッティ通りに、マルタ宮殿として騎士団本部のみが残ります。
大包囲戦で激戦地となった聖エルモ砦では、観光用のイベントして、イン・ガーディアと呼ばれる聖ヨハネ騎士団のショーを見ることができます。

左:大包囲戦の記念碑・台座にローマ数字で1565 / 右:イン・ガーディア

マルタには騎士団時代の繁栄を偲ばせる数多くの建築物が残っています。中でも騎士団の名前にもなっている聖ヨハネにささげる教会は見逃せません。聖ヨハネとは、イエスより先にユダヤの人々に神の教えを説き、イエスに洗礼を施した人物としてキリスト教ではもっとも重要な部類に入る預言者です。福音書記者の聖ヨハネと区別するために、バプテスマ(洗礼)のヨハネと呼ばれます。
その教会が首都ヴァレッタにある聖ヨハネ准司教座教会St.John’s Co-Cathedral。日本のガイドブックなどでは間違って聖ヨハネ大聖堂と表記されることが多いようです。カトリック教会では、司教座の置かれる教会を大聖堂と呼びます。准司教座という名がついたのは、かつてマルタを植民地としたイギリスがこの立派な教会をイギリス国教会のものにしようと企んだことによるとか。マルタの人々はそれが叶わないようにとヴァチカンに頼み、司教座はなくてもそれと同等の教会に格上げしてもらったという経緯です。この教会の内部は往時を思い起こさせる華麗な装飾で埋め尽くされ、付属の美術館には騎士団長の命によって描かれたカラヴァッジョ作の「聖ヨハネの斬首」が収められています。
マルタで司教座があるのは、イムディナという町の聖パウロ大聖堂です。マルタは、エルサレムで捕らえられた聖パウロがローマへ護送される際に船が難破してたどり着いた場所。パウロはここに3か月間滞在し、病気の人々を癒しました。[2]使徒行伝 第27章39-44節、第28章1-11節イムディーナの町には、大聖堂と別に聖パウロを祀る教会があり、その地下にはパウロが暮らしていたとされる洞窟が残ります。

左:聖ヨハネ准司教座教会 / 右:聖パウロ教会

初夏から盛夏にかけてマルタのあちこちで目にする花はキョウチクトウです。和名は、葉がハサミや竹の葉のように細く尖っていて、花が桃のように美しいことから付けられた中国名の夾竹桃を、そのままキョウチクトウと呼んだのだといわれています。高温と大気汚染に強いので日本でも街路樹やビルの緑化によく利用される樹種です。その反面、葉や花を含むすべての部位に強い毒性があることでも知られているため、家庭用の園芸樹木としては不適とされます。日本で一般的なのは白、ピンク、赤といった花色です。でもマルタではなんとも微妙な色合いの株をよく見かけます。
キョウチクトウは、広島市の市の花に制定されています。広島市のウェブサイトによれば、《75年間草木も生えないといわれた焦土にいち早く咲いた花で、当時復興に懸命の努力をしていた市民に希望と力を与えてくれました》と記載があり、平和記念日のころに咲き誇った姿が見られることもふさわしい理由でしょう。

マルタのキョウチクトウ

References

References
1 1571年10月7日
2 使徒行伝 第27章39-44節、第28章1-11節