ミス・ジェーン・マープルMiss Jane Marpleはセント・メアリ・ミード村St. Mary Meadに住む編み物好きの老婦人。厳つい警察官には話せないことも小柄なおばあさんには話せてしまうというところが強みです。
ポアロと違って明晰な頭脳で推理をするのではなく、持ち前の観察眼と洞察力で、周りの人々と話して得た情報をパズルのように組み合わせ、真実を突き止めていくのが基本スタンス。と思いきやとんでもない策略で犯人を追い詰めるというやり方もします。彼女の真骨頂は警察と手を組んでは刑事コロンボ顔負けのおとり捜査で罠にかける手法です。
日本語のオールドミスと同様に最近はあまり使いませんが、英語でいわゆる結婚適齢期を過ぎた未婚女性のことをspinsterスピンスターといいます。もとは糸紡ぎのことです。昔、ヨーロッパでは、未婚女性は既婚者に比べて地位が低くて、低収入の職業にしか就くことができず、その仕事の代表格が糸紡ぎでした。20世紀になってからも伝統的価値観は大きく変化せず、たとえ高い教育を受けていたとしても社会的地位と所得を保持するための職業は限られていたのです。結婚して主婦になることが最も評価されていたといえます。ミス・マープルが若い頃のことはあまり言及されていないので、どこでどのような仕事をして暮らしていたのかはっきりわかりません。それでも、周囲の無遠慮な評定を受けていたと察するべきで、そのことが思慮深く慎重かつ冷静で、論理的思考に基づいた正しい判断をおこなう気質を生み出したのかもしれません。
“Really, I have no gifts—no gifts at all—except perhaps a certain knowledge of human nature”
「本当よ。私には才能がないの。これっぽっちもないのよ。おそらく人間性に対してのいくらかの知識以外にはね」ー「予告殺人」A Murder is Announced(1950年)
そんな彼女が活躍するお話をいくつかご紹介。(内容は早川書房版をベースにしています)
◆火曜クラブThe Thirteen Problems(アメリカ版題名:The Tuesday Club Mystery1932年)
ミス・マープルが初めて登場する短編集。十三の課題という原題にあるように、集まった人々が順番に自分の遭遇した事件を話し、みんなで謎解きをしていくという筋書き。ある火曜日の夜、ミス・マープルの家にやって来たのは彼女の甥レイモンド、前警視総監のヘンリー・クリザリング卿、弁護士のペサリック、ペンダー牧師に女流画家のジョイス・ランプリエールです。そこでの迷宮入り事件の話題から、毎週集まっては代わる代わるに自身の知っている事件を問題として披露することになりました。第1話から第六話までがこのメンバーによる推理の集いです[1]出版社の依頼で雑誌に6話だけ連載した。最初はただのゴシップ好きの老婦人で謎解きに関しては圏外にいるかのような扱いだったミス・マープル。ところが、その鋭い見識で見事に次々と真実を突き止めていくことによって、ヘンリー卿からも篤い信頼を得るようになっていくところが楽しいですね。
第六話 聖ペテロの指のあとThe Thumb Mark of St Peter
ミス・マープルが、姪のメイベルの夫ジェフリーの、死の間際に口走った魚にまつわるような謎の言葉について語ります。どうやらこれが彼女が初めて解決した事件のようです。ここで出てくる「聖ペテロの指のあと」とは魚の異名のこと。イギリスではとても一般的で、フィッシュ・アンド・チップスにも使われるハドックHaddock。エラの後ろの部分に黒い斑点があるので、聖ペテロの指のあととか悪魔の拇印と呼ばれます。和名はコダラあるいはモンツキダラだそうです。なぜ聖ペテロの指のあとなのかというと、マタイによる福音書にある、イエスの指示でペテロ[2]もともとガリラヤ湖の漁師だったが魚を釣りに行く話[3]第17章27節によります。「海[4]ガリラヤ湖に行って、つり針をたれなさい。そして最初につれた魚(うお)をとって、その口をあけると、銀貨一枚が見つかるであろう。それをとり出して、わたしとあなたのために納めなさい[5]宮の納入金として」[6]日本聖書協会1954年改訳その時のぺテロの親指のあとが斑点になったとされているのです。フランスでは、聖ペテロの名が付いたサンピエールSaint-pierreという魚がいます。これは英語でJohn Doryと 呼ばれるマトウダイの仲間Zeus faberのこと。大きな斑点が特徴です。ただし、ハドックもサンピエールも海の魚なので淡水のガリラヤ湖には生息していません。
イスラエルでは「聖ペテロの魚」がいくつか存在します。いずれもティラピアの仲間です。一般的なのはレッドベリー・ティラピアCommon St. Peter’s fish、それに大きめのマンゴー・ティラピアGalilee St. Peter’s fish、色の黒いブルーティラピアJordan St. Peter’s fishなど。
第七話 青いゼラニウムThe Blue Geranium
第七話から第十二話までは、最初の火曜クラブの翌年の出来事です。ヘンリー卿とその旧友のバントリー夫妻、人気女優のジェーン・ヘリア、年配のドクター・ロイドがメンバー。バントリー夫妻はまだこの時点ではミス・マープルとは友人関係ではないようです。
病身のミセス・プリチャードは占い師から不吉な手紙を受け取ります。”Beware of the Full Moon. The Blue Primrose means warning; the Blue Hollyhock means danger; the Blue Geranium means death.”「満月に気を付けろ。青いPrimroseは警告、青いHollyhockは危険、青いGeraniumは死を意味する」
ミセス・プリチャードの寝室の壁紙にはたくさんの花が描かれています。そこには青い花はありません。やがてPrimroseが、次にHollyhockが一輪ずつ青に変化します。そしてついにGeraniumも青く…というお話。Primroseプリムローズとはサクラソウ属の総称で特にPrimula vulgarisプリムラ・ウルガリスを意味し、Hollyhockホリホックはタチアオイ属のことで、その中でもAlcea roseaアルケア・ロゼアを指します。
厄介なのはGeraniumです。これは本来は普通に流通しているゼラニウムではなく、ゲラニウムのこと。ゲラニウムはフウロソウ科フウロソウ属の総称。日本にも胃腸薬として有名なゲンノショウコなどの自生種があります。対して所謂ゼラニウムは同じフウロソウ科でもテンジクアオイ属で、Pelargoniumペラルゴニウムというのが正しい名前です。これはイギリスでもしばしば混同されていて、RHS(王立園芸協会)でも区別するためにゲラニウムの方をHardy Geranium耐寒性ゲラニウムと呼んだりしています。同じ科なので花は似ていますが、葉の形が全然違うので一目で区別可能です。このお話に出てくるドリー・バントリーは園芸に詳しく、実際にこの壁紙を見たこともあるので、恐らくここでは本来のゲラニウムを指していると考えていいでしょう。ついでですが、ゲラニウムの名はギリシャ語のツルGeraniaから、ペラルゴニウムはギリシャ語のコウノトリpelargósから名付けられました。それぞれ種子のかたちが嘴に似ていることが理由です。そのため、ペラルゴニウムはStorksbill Geraniumストークスビル(コウノトリの嘴)ゲラニウムとも呼ばれます。
第八話 二人の老嬢The Companion
これをそのまま「コンパニオン」というタイトルにしてしまうと、どうしても宴会の接客係をイメージしてしまうので仕方ないところでしょうが、ここに出てくる二人は40歳ぐらいとなっていて、「老嬢」と言われると少し悲しい感じです。和製英語のオールドミスに相当するというところでしょうか。ちなみに東京創元社版「ミス・マープルと13の謎」では「お相手役(コンパニオン)」です。
コンパニオンというのは、イギリスでは20世紀の半ばぐらいまで存在した職業。もともとは貴族や裕福な婦人が話し相手や身の回りの世話のために住み込みで雇っていた女性のこと。メイドや執事やコックと違って、使用人ではないものの、かと言って友人でもない微妙な立場でした。この本が書かれた頃には、そこまでお金持ちでない人でも、同年代の独身女性をコンパニオンとして同居させていたようです。ドクター・ロイドが披露するのは、そんなイギリス人女性メアリ・バートンとそのコンパニオンのエイミ・デュラントの話です。場所はカナリア諸島のグラン・カナリア島。二人は海水浴に出掛けますが、そこでエイミが溺死してしまいます。イギリスに戻ったメアリもエイミの死に責任がある旨の遺書を残していなくなってという展開。さて、ミス・マープルの的を射たつっこみは如何に。
邦題「毒薬と老嬢」というアメリカ映画(”Arsenic and Old Lace”1948年日本公開)があります。もとは戯曲で、ブロードウェイで人気を博したことから映画化されました。ケーリー・グラントが主演のブラック・コメディです。彼が結婚の報告のためにブルックリンに住む叔母姉妹のところへ行くと、なんと毒殺された死体を発見するというお話。この姉妹は明らかに60代以上の設定なので老嬢で問題ないかもしれません。
第十三話 溺死Death by Drowning
第十二話からさらに月日が経った頃、バントリー夫妻の家に宿泊していたヘンリー卿は、身重になった村の娘ローズが川に身を投げて溺死したというニュースを耳に。そこへミス・マープルが現れ、これは自殺でなく殺人だと言い出します。彼女は犯人の名前を書いた紙片をヘンリー卿に手渡し、無実の人が絞首刑になったりしないように調査してほしいと頼みました。警察が調べると、遺体の状況や目撃者の証言からやはり殺人のようです。犯人と目されたのはお腹の子の父親と思しき建築家のサンドフォード。ヘンリー卿は、ローズの父トム・エモット、ローズに恋していた大工のジョー・エリス、彼の下宿先のミセス・バートレット、目撃者の少年ジミーから詳しく事情を聞き取ります。ジョーも怪しいもののアリバイがあり、警察はサンドフォードを逮捕しようとしますが、ミス・マープルの言葉によってヘンリー卿は真相に辿り着くのです。彼女が渡した紙片には当然のことながら真犯人の名前が。
この短編集は、冒頭でも書いた通りに、当初は部外者の如き扱いをされていた田舎暮らしの老婆ミス・マープルの活躍が描かれています。知識や経験が豊富であろう人々を尻目に、鋭い洞察力によって本質を見極めることで徐々に一目置かれるようになり、その集大成とも言える第十三話では、初めから犯人はわかっていますよとばかりにヘンリー卿を操る芸当をやってのけるのです。
◆書斎の死体The Body in the Library(1942年)
物語の舞台となるのがセント・メアリ・ミード村の邸宅ゴシントン・ホールGossington Hall。ミス・マープルの親友となったドリーと夫のバントリー大佐が住んでいます。ある朝、夫妻の寝室にメイドが駆け込んできて、「書斎に死体があります」と伝えます。夢の話ではないかと疑いつつも大佐は階下へ向かいました。そこにはやはり見知らぬ若い女の死体が。ドリーに頼まれてミス・マープルが現場へやってきます。死んでいる女性は入念にカールして手入れした髪に濃いメイク、スパンコール付きのイヴニングドレスというきらびやかな恰好です。でも何故かその足には安っぽいサンダルが。
ゴシントン・ホールとともに、セント・メアリ・ミードからほど近い海浜リゾートのデーンマスDanemouth[7]架空の地名、発音するならディンマスにある高級ホテル、マジェスティックMajestic Hotelがもうひとつの主要な現場となります。殺害されたのはこのホテルでダンサーをしていたルビー・キーンだと分かったからです。なぜ殺されたのか、犯人は誰か、ということはもちろん、どこで殺されたのか、なぜ死体が書斎へ置かれたのか、不可思議なことばかり。さらに今度は焼け焦げた車の中から焼死体が見つかります。前夜から行方不明になっていたガールガイド[8]日本やアメリカのガールスカウトの少女パメラです。果たしてルビーの死との関係はあるのでしょうか?ミス・マープルは謎だらけの事件を見事な推理で紐解いていきます。
作中でメルチェット警察本部長がハーパー警視に対し、まだやることがあると考えて”Cherchez l’homme”とフランス語で言う場面が。男を探すという意味なのですが、もともとフランスの推理小説では、日本語の「犯罪の陰に女あり」のもととなった言葉として”Cherchez la femme”「女を探せ」という決まり文句がありました。恐らくそれにかけているのでしょう。
◆鏡は横にひび割れてThe Mirror Crack’d from Side to Side(1962年)
タイトルはアルフレッド・テニソン男爵Alfred, Load Tennyson[9]19世紀ヴィクトリア朝時代の詩人 の詩「シャロットの乙女」The Lady of Shalott(1832年)からの引用です。この詩は、アーサー王伝説の世界に関わるもの。シャロットの孤島に住み魔法の織物を織り続けている女は、魅力的なキャメロットの町を直接目にすると呪われるとされて、鏡に映して見ることしかできません。しかし、いつも鏡越しに見ていた凛々しいランスロットが歌いながら通りかかると、その姿ととともにキャメロットを直に見下ろしてしまいます。呪われた彼女はキャメロットへ向かう川の小舟に揺られ、歌いながら死んでいくというお話。
Out flew the web and floated wide;
The mirror crack’d from side to side;
‘The curse is come upon me,’ cried
The Lady of Shalott.
織っていた布がはためいて広がる
鏡がビシッと左右から割れる
「呪われたー」と叫ぶシャロットの乙女
ついでながら、このテニソンの詩は、ポアロものの「死人の鏡」’Dead Man’s Mirror'[10]1931年・早川書房版の短編集の邦題は同名だが、英題は’Murder in the Mews’でも引用されています。
バントリー夫妻のゴシントン・ホールは、大佐の死後に大女優マリーナ・グレッグに売却されました。本作は彼女が引っ越してくるところから始まります。未亡人ドリーはゴシントン・ホールの門衛所をロッジに改装して住むことに。ジョーン・ヒクソンがマープル役のBBC版ドラマでは、旅行に出ていたドリーが引っ越し中のロッジへ戻るシーンがあります。そこで「書斎の死体」に使われていたヘレンドHerend[11]ハンガリーの磁器のアポニーグリーンのカップがちゃんと映るのがうれしいところです。
マリーナは、新居のお披露目を兼ねてゴシントン・ホールを野戦病院協会のパーティ会場として提供します。パーティには大勢の村の人たちが訪れて盛大に行われました。テニソンの詩は、ドリーがパーティの際に見たマリーナの凍りついたような顔の表情を表現したもの。マリーナは果たして何を見て、あるいは何に気付いてそのような大きな衝撃を受けたのでしょうか。最初の殺人はパーティで振る舞われたマリーナの好物ダイキリDaiquiri[12]ライトタイプのラム2オンス、ライムジュース1オンス、シュガーシロップ0.5オンスをシェイクに入れられた毒によるものです。マープルをジュリア・マッケンジーが演じたITV版ドラマではスタンダードなダイキリのようでした。でもBBC版ではカクテルグラスがスノースタイル[13]グラスの縁を湿らして砂糖を付ける。マルガリータの場合は塩。普通のダイキリには行わないにしてあり、底の方にピンク色が見えるので、グレナデンシロップを使っていると思われます。余談ですが、80年代にバーマン[14]個人的にはバーテンダーよりこの言葉の方が好きをしていた頃はトロピカル・カクテルが流行っていて、イチゴやパイナップル、オレンジ、ピーチといったいろいろなフルーツを使ったフローズン・ダイキリをよくつくっていました。
亡くなったのは野戦病院協会の幹事をしているヘザー・バドコックという中年女性。ミス・マープルも知っている優しく感じの良い人で、過去に大ファンであるマリーナに会ってサインをもらったエピソードを聞かされています。ヘザーはマリーナと談笑しながらダイキリを飲み、その後に倒れました。もしかしたら狙われたのはマリーナかもしれません。スコットランドヤードで事件を担当するのはミス・マープル旧知のクラドック主任警部です。なかなか解決の糸口が見つからないまま、第2、第3の殺人事件が発生。ミス・マープルは、マリーナが見て凍り付いたのは壁に架かった絵ではないかと推理します。その絵とはGiacomo Bellini’s “Laughing Madonna”ジャコモ・ベッリーニの「微笑む聖母」の複製だそうです。恐らくGiovanni Belliniジォヴァンニ・ベッリーニのことでしょう。「聖母子」はたくさん描いていますが、作中の描写に近いと思われるのは以下の油彩画かもしれません。
殺人には驚きの動機がありました。
このお話はテレビドラマだけでなく、「クリスタル殺人事件」(原題:The Mirror Crack’d、1981年日本公開)として映画化されています。ミス・マープル役はアンジェラ・ランズベリー。当時ハリウッド作品で流行していた往年の名優が一堂に会するスタイルです。ロック・ハドソン、トニー・カーチス、キム・ノヴァク、エドワード・フォックスなどが揃い踏み。主役のマリーナを演じたのは大女優エリザベス・テイラー。蛇足ながらこの映画をはじめ、テレビ放送時などのエリザベス・テイラーの日本語吹き替えは小生の友人の母君だったので思い入れがあります。
◆バートラムホテルにてAt Bertram’s Hotel(1965年)
これまでのミス・マープルものとは毛色の違う、組織犯罪を扱ったお話。ロンドンのウエストエンドにあるミス・マープル思い出のホテルを舞台にして、行き交う様々な人物を描く「グランドホテル形式」で物語は進行します。バートラムホテルは同じメイフェア地区にあるサヴォイSavoyやクラリッジ ズClaridge’s、グロヴナーハウスGrosvenor Houseといった大型デラックスホテルとは違い、小さいながらも常客を大切にするようなホスピタリティに優れたところです。 モデルとなったホテルは、アガサがよく宿泊したブラウンズBrown’s、またはオックスフォード人名辞典に記載されているフレミングスFlemingsのどちらかといわれます。個人的推理による見解としてですが、作中の地理的表記のみから判断するとフレミングスのほうで間違えないでしょう。①ホテル前の道はバークレー・スクエアやシェパード・マーケットへの抜け道になっている(フレミングスのあるハーフムーン・ストリートとその先のカーソン・ストリートはピカデリーからの抜け道[15]ブラウンズは少し奥まった場所なので抜け道にはならない)②ミス・マープルはボンド・ストリートから25番のバスに乗るか、パークレーンから2番にするかと言っている(フレミングスはちょうど中間あたりに位置し、どちらへ行くにもゆっくり歩いて6~7分というところ[16]ブラウンズからボンド・ストリートはすぐ近くだが、パークレーンまでは徒歩10分以上かかる)
ミス・マープルは姪のはからいによって、少女時代に訪ねたことのある居心地の良いホテルで2週間を過ごすことになりました。時期は「カリブ海の秘密」A Caribbean Mystery(1964年)の少し後のことのようです。彼女は友人のセリナ夫人とお茶を楽しみながら、ホテルに出入りする人々を観察します。聖職者のペニファザー、有名な冒険家ベス・セジウィック、その娘エルヴァイラ、レーサーのマリノフスキー、ドアマンのゴーマン、エルヴァイラの後見人ラスコム。それそれが曰くありげで謎が隠されているような雰囲気です。やがてペニファザーが自室で何者かに襲撃され、未解決の大規模強盗事件との関連から警察が捜査を始めます。主に謎を解いていくのは”Father”「おやじさん」ことデイビー警部。それでも、ミス・マープルが見聞きしたことから大がかりな陰謀と意外な黒幕が明らかになっていきます。
バートラムホテルで食べることのできる本物のシードケーキseed cakeとは、キャラウェイシードを入れたイギリスの伝統的なお菓子。ウェールズでは羊毛の刈り取り時期に食べられていたのでshearing cakeシャーリングケークとも呼ばれます。それにグラウスの冷肉cold grouse。ローストしたライチョウの冷製のことです。ライチョウは飼育しているのではなく野禽。イギリスではライチョウ以外にもキジやヤマウズラ[17]ミス・マープルの大好物といった野鳥を狩猟対象としています。その狩猟のシーズンは種ごとに定められていて、ライチョウは8月12日から12月10日までだそうです。
このホテルには二つのバーカウンターが並ぶダブル・バーがあります。そこでお酒を提供するのはアメリカ人とイギリス人のふたりのバーマン。アメリカ人はアメリカ的にバーボンやライ・ウィスキーとあらゆるカクテルを、イギリス人はイギリス的にシェリーやピムス№.1を出してくれます。ピムスというのは、ジェームス・ピムという人がカクテル用につくったリキュールのこと。ベースのお酒が違う№.1から№.6まであります。中でもジンベースの№.1を使ったピムス・カップ№.1というカクテルが有名。レモネードやジンジャエール、ミント、オレンジなど、それにマドラー代わりのキュウリを入れた爽やかな飲み物で、テニスの全英オープン(ウィンブルドン)の定番ドリンクとして知られます。
イタリア帰りの若い娘エルヴァイラが所望した飲み物はジン・アンド・ヴェルモットGin and Vermouth。ヴェルモットはマティーニの材料ですが、カクテルにせず飲む場合は氷を入れたグラスに1:1で注ぎます。ヴェルモットの種類を指定する際の呼び方は、辛口のフレンチ・ヴェルモットを使うものはGin and French、甘口のイタリアン・ヴェルモットはGin and It(Italyの略)です。
このお話に出てくる重要人物ペニファザーは牧師と書かれています。でも、原書を見ると他の作品でも度々登場する教区牧師のVicarではなくCanon。つまり大聖堂に努める司祭のことです。ちなみに、ペニファザーの家政婦が用意したdover soleをドーバー・カレイと訳していますが、これはもちろん舌平目のことなので、正しく書いてほしかったですね。