ミス・マープル天誅

ロンドンから南へ25マイルほど離れた小さな村セント・メアリー・ミードに暮らす老婆ミス・ジェーン・マープル。みんなの話をじっくり聞いてそこから真相を導き出すのが得意です。そのうえ、わざと犯人をあぶり出すような小細工を仕掛けることもお手の物というのが素晴らしい。ここでは、つながりのある2つのお話を自分勝手にご紹介します。(内容は早川書房版がベースです)

◆カリブ海の秘密A Caribbean Mystery(1964年)
ミス・マープルは、売れっ子の小説家となった甥のレイモンドのはからいで、静養のために西インド諸島のSt. Honoréサントノレ島へやって来ました。滞在しているゴールデン・パーム・ホテルは、まだ若いティムとモリーのケンドル夫妻の経営です。ホテルには世界各地からやって来た大勢の人々が宿泊していて、グレアム医師、プレスコット司祭と妹、パルグレイヴ少佐などミス・マープルの話し相手になる年配の方たちもたくさんいます。それにとてつもない大金持ちの老人ジェースン・ラフィールが秘書とともにバンガローに長く逗留中。ある日、ミス・マープルはおしゃべり好きのパルグレイヴ少佐から、ふたつの似通った殺人事件の犯人と思われる男のスナップ写真を持っていると聞かされます。その話は短編集「火曜クラブ」”The Thirteen problems”の中の、「舗道の血痕」”The Blood-Stained Pavement”と少し類似。少佐は札入れから出した写真を見せようとしますが、その時、彼女の後ろに何かを見つけて顔色を変え、写真をしまい込んで話題を切り替えました。そして翌朝、ミス・マープルは少佐が亡くなったことを知ります。高血圧が原因だとか。怪しんだ彼女は、件の写真が関係あると考えます。他にも少佐の死に疑いを持つ人たちが現れたものの第二の殺人が発生。彼女は誰かの助力が必要だと聖書の一節を思い浮かべるのです。
“Whom shall I send? Who will go for me?”
「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」(イザヤ書第6章8節)[1]日本聖書協会1955年改訳
そのだれかはラフィールでした。ただの資産家ではなく、落ち着いて賢明な思考を繰り返したうえで、的確で厳正な状況判断ができる人物です。ミス・マープルにとっては最高の援助者になります。無事に真相が解明されると、別れの際にラフィールがミス・マープルに告げます。
“Avē Imperātor, moritōrī tē salütant”
「皇帝万歳!死にゆく者たちが敬礼する」
古代ローマの歴史家スエトニウスが、カエサルとアウグストゥスからドミティアヌスまでの11代の皇帝について書いた”DE VITA CAESARUM”「カエサルの生涯」[2]「12人の皇帝」として知られるからの引用です。第4代皇帝クラウディウスが好きだった模擬海戦の際に、そこで死ぬ運命にある奴隷や捕虜たちが言ったとされます。死期が近いと感じていたラフィールは、彼女とは二度と会うことがないと悟り、敬意を表してこの言葉を送りました。

ホテルで如才なく宿泊客の世話をするティムが、ミス・マープルに何か欲しいものがあればと例えて言うのはBread and Butter Puddingパンとバターのプディングです。これはイングランドの人が好きなデザート。ちょと固くなった食パンにバターを塗り、レーズンと共にカスタードクリームに浸してオーブンで焼きます。出来たてにバニラアイスクリームをのせて食べるのがおすすめ。
サントノレは架空の島です。名前からして(旧)フランス領のイメージでしょう。サントノレと言えばFaubourg Saint-Honoréフォーブール・サントノレが有名。パリのマドレーヌ寺院とコンコルド広場の間にシャンゼリゼと並行して走る細い道です。なにしろ世界中の高級ブランドのブティック が立ち並んでいることで知られていますね。サントノレとは、パリから北へ150㎞ほどにあるAmiensアミアンの司教だった聖オノラトゥス(ホノリウス)のことです。
このお話は何度か映像化されています。ジョーン・ヒクソンがミス・マープルを演じたBBC版ドラマでのジェースン・ラフィール役は、なんとドナルド・プレスンスDonald Pleasence。イギリスの名優です。アガサものでは、戯曲版「そして誰もいなくなった」をベースにした、1990年日本公開の映画「アガサ・クリスティー/サファリ殺人事件」[3]原題”Ten Little Indians”でウォーグレイヴ判事を演じました。個人的には「大脱走」[4]“The Great Escape”・1963年日本公開の偽造屋コリンや「鷲は舞いおりた」[5]“The Eagle Has Landed”・1977年日本公開のハインリヒ・ヒムラー、それに刑事コロンボの「別れのワイン[6]“Any Old Port in a Storm”・1974年日本初放送のワイナリー経営者が印象に残っています。


◆復讐の女神Nemesis(1971年)
アガサが書いた最後のミス・マープルもの[7]ミス・マープル最後の事件「スリーピングマーダー」”Sleeping Murder”が書かれたのは第二次大戦中とされるです。「カリブ海の秘密」のサントノレ島での事件で、ミス・マープルの心強い協力者となった億万長者のジェースン・ラフィール。彼女は、新聞の死亡記事で彼が亡くなったことを知ります。すると彼の弁護士から連絡があり、ラフィールからの手紙を渡されるのです。そこに記された彼の遺志は、ミス・マープルに「ある事件を解決」させることでした。いつどこで起きた事件なのか、その内容は知らされていません。ただあるのは、合言葉code wordとしてネメシス。「カリブ海の秘密」の最後の方のラフィールのセリフ”If you knew what you looked like that night with that fluffy pink wool all round your head, standing there and saying you were Nemesis! I’ll never forget it!”「あの晩の恰好、ふわふわしたピンクの毛糸をすっぽりと頭に被って[8]ボンネットと呼ぶ、紐を首のところで縛るフードのような婦人用の帽子そこに立ちながら、自分はネメシスだって言ったろ。俺は絶対忘れないよ」。

合言葉でありタイトルにもなっている「ネメシス」は、この作品ではとても大事な言葉です。ネメシスというのはギリシャ神話の女神。でも、特定の被害者のために仕返しをする「復讐」ではなく、尊大で高慢な行いや犯した罪への報いとしての懲罰を司る女神のことです。有名なのは美少年ナルキッソスにまつわる神話でしょう。ナルキッソスに恋したニンフのエコーは、彼に邪険にされて憔悴し声だけの存在になってしまいました。ネメシスはその罰として、ナルキッソスが泉に映った自分の姿に恋するように仕向けます。泉から動けなくなった彼はやがてスイセンの花になるというようなお話です。ギリシャ神話の中には、人間の愚かな行為への神の怒りが多く描かれていて、ネメシスとは別に、エリニュスあるいはフューリー[9]英語のfury:激怒、そのものと総称されるアレクト、ティシポネ、メガイラの三女神が復讐の女神たちとして登場します。この物語でも「カリブ海の秘密」でも、ミス・マープルは誰かの個人的復讐を果たそうとしているわけではありません。大きな罪を犯しながら平然と生きている者を見つけ出し、真実をあぶり出して公正な裁きを受けさせること。そして、当然の報いを受けるように仕向けようということです。なので、ネメシスを「復讐の女神」としてしまうと違和感があります。天罰、天誅、因果応報のような意味を持つ神だと思えばいいでしょう。つまりラフィールは、その事件の解決をミス・マープルに託し、犯人が懲らしめられることを望んだということです。日本では本書だけでなく、ネメシス=復讐の女神と間違って使われる機会が多々あるため、そのように思い込んでいる人も多いかもしれません。ついでながら、ネメシスはポアロものの短編「狩人荘の怪事件」”The Mystery of Hunter’s Lodge” でも言及されています。

左:ネメシス(デューラー画)/ 中:テミスとネメシス(プルドン画・羽のあるのがネメシス、玉座に座るのが法の女神テミス)/ 右:オレステースの悔恨(ブグロー画・後ろで責めたてているのががエリニュスたち)

ミス・マープルは故人が手配していた”Famous Houses and Gardens of Great Britain”「英国の有名邸宅と庭園」バスツアーの37番コースに参加します。快適で豪華なバスはロンドンから北西へ。ツアーの添乗員で、しかもラフィールが予め頼んだミス・マーブルの世話役サンボーン夫人と、その他の15名のツアー客が一緒です。ある邸宅の見学中、ツアー客のひとりで元校長のミス・テンプルがミス・マープルに言います。”The moment of the rose and the moment of the yew-tree Are of equal duration“「バラの一瞬もイチイの一瞬も同じ長さである」。これはT.S.エリオット作”Four Quartets”「四つの四重奏」の4番目の詩”Little Gidding”「リトル・ギディング[10]イングランド中部の地名」の中の一節です。バラは生の象徴でイチイは死の象徴。ミス・マープルはその意味を考えます。するとミス・テンプルが彼女に、ジェースン・ラフィールの息子マイクルの婚約者だった娘の死について語るのです。さて、ある事件とはその娘が亡くなったことなのでしょうか?果たしてツアーは事件の現場へと向かうのでしょうか?他のツアー客とその事件とに関わりはあるのでしょうか?
ちなみに、アガサがメアリー・ウエストマコット[11]Mary Westmacottこの名で6冊を出版のペンネームで著した小説「暗い抱擁」(1948年)の原題は”The Rose and the Yew Tree”で、エピグラフには上記の一節があります。

右:イチイの木

その翌日、滞在中のホテルへ訪ねて来たグリン夫人が、ラフィールからの依頼だとしてミス・マープルを自宅へ招待しました。そこに住むのは三姉妹。ミス・マープルはチェーホフの戯曲「三人姉妹」や「マクベス」の三人の魔女を想起します。三人のうちの末の妹アンシアの案内で庭を見学するミス・マープル。そこには手入れが行き届かずに崩れかけた温室が。その中は大量のPolygonum baldschuanicumが繁茂しています。これは、現在はFallopia baldschuanicaという学名になっているタデ科のつる性植物です。アジア原産で、一般にはロシアン・ヴァインとかブハラ・フリースフラワーという名や、ナツユキカズラの和名で流通しています。成長が早く小さな白い花をつけるのが特徴です。ミス・マープルがこの植物に注目していると、アンシアは何故か意図的にそこから遠ざけようとしているように思われます。何やら秘密がありそうです。そして新たな事件が発生し、亡くなったマイクルの婚約者の名前がヴェリティ・ハントだと分かります。そしてミス・マープルは自らが何をすべきかを悟るのです。さてヴェリティとはどんな女性だったのか?彼女は誰かに殺されたのか?だとすると天罰を受けるのは誰なのか?
見事に事件を解決したミス・マープルは、ジェースン・ラフィールの手紙の締め括りに書かれた旧約聖書のアモス書[12]第5章24節からの引用について考えるのでした。”Let justice roll down like waters, and righteousness like an everlasting stream.”「正義を水流の如く流れ落とし、公正を果てない川の如くにさせなさい」(拙訳)

左:エコーとナルキッソス(ウォーターハウス画) / 右:Polygonum baldschuanicum

ツアー出発前にロンドンへやって来たミス・マープルが宿泊するのが「質素な」Saint George Hotelセント・ジョージ・ホテル[13]同名のホテルがいくつかあるので特定困難。そこで彼女の心によみがえるのが「素敵な」Bartram’s Hotelバートラム・ホテルでの想い出です。ジェーン・マープルにとってロンドンと言えばバートラムなんですね。
ミス・マープルは、ラフィールから約束された成功報酬2万ポンドを受け取ったら、好物のヤマウズラ[14]partridge、早川書房2004年初版ではシャコと訳されているがヤマウズラのこととマロングラッセを食べたいと言っていました。マロングラッセと言えば、パリには美味しいお店がいっぱいあります。個人的なおすすめはサン・ルイ島にある’Berthillon’「ベルティヨン」です。有名なアイスクリーム屋さんで、様々な自家製のお菓子も扱っています。ノイチゴのメルバLa fraise des bois Melbaが名物なのですが、マロングラッセ入りのアイスやパフェが最高。ぜひお試しください。

左:ツアーで立ち寄ったブレナム宮殿 / 右:ヤマウズラ

この物語をはじめて読んだときにはまだアガサは存命でした。そして、うろ覚えながら、いずれこの続編的なものが刊行されるのだと思ってもいたのです。どうしてそう思ったのかが気になったのでいろいろ探ってみたところ、ハヤカワ・ポケット・ミステリ版(1972年初版・乾 信一郎訳)の「ミス・マープル三部作」と題されたあとがきの中に、「昨年一九七一年に書かれた本書『復讐の女神』も女史のこの盛んな創作意欲を物語っており、『カリブ海の秘密』(六四年)、本書、未刊のWoman’s Realmでミス・マープル三部作を形成する予定である」と書いてありました。しかしながら、小生の知る限りでは、英米の関連書籍を読んでも「三部作」に言及したものはなく、「アガサ・クリスティー完全攻略[決定版]」(早川書房・霜月 蒼著・2018年初版)にも不明確な情報として記載されています。実は”Woman’s Realm”[15]2001年Woman’s Weeklyに合併とは、「復讐の女神」が連載されていたイギリスの週刊女性誌の名称です。どこかで間違って伝わったのかもしれません。realmはカタカナ表記だとレルム。通常使われるのは領域や分野を表す言葉ですが、たとえばCommonwealth realmといえばイギリス連邦王国のことであるように、君主国の意味もあります。なのでこの雑誌名を日本語にするなら「女性の王国」がいいでしょう。


References

References
1 日本聖書協会1955年改訳
2 「12人の皇帝」として知られる
3 原題”Ten Little Indians”
4 “The Great Escape”・1963年日本公開
5 “The Eagle Has Landed”・1977年日本公開
6 “Any Old Port in a Storm”・1974年日本初放送
7 ミス・マープル最後の事件「スリーピングマーダー」”Sleeping Murder”が書かれたのは第二次大戦中とされる
8 ボンネットと呼ぶ、紐を首のところで縛るフードのような婦人用の帽子
9 英語のfury:激怒、そのもの
10 イングランド中部の地名
11 Mary Westmacottこの名で6冊を出版
12 第5章24節
13 同名のホテルがいくつかあるので特定困難
14 partridge、早川書房2004年初版ではシャコと訳されているがヤマウズラのこと
15 2001年Woman’s Weeklyに合併