パリからセーヌ川を下っていくと、やがてノルマンディー地方に入ります。そのセーヌ河畔に開けた港町がルーアンRouenです。その歴史は古く、ローマ時代にはロトマグスという名で呼ばれ、属州ガリア・ルグトゥネンシスの中でルグトゥルム(現在のリヨン)に次ぐ第二の都市でした。841年にロロ率いるヴァイキングがここを制圧し定住をはじめます。彼らはたびたびセーヌ川をさかのぼってはパリを襲撃したため、西フランク王シャルル3世はロロと条約を締結し、ノルマンディーの土地を与えました。その後さらに領土を広げてノルマンディー公国となり、ルーアンはその首都と位置付けられたのです。
ルーアンの町のシンボル的存在といえば、かつて印象派の画家クロード・モネによって連作が描かれたノートルダム大聖堂。12世紀から長い年月をかけて建てられた壮麗な聖堂は、フランスのゴシック様式を代表する教会建築のひとつです。正面から見ると左右に建つ鐘楼の様式が異なっていることがわかります。向かって右の華やかな装飾が施された塔の名前はTour de beurre(バターの塔)。カトリックでは、イエスが40日40夜を荒野で過ごし断食したことにならい、復活祭前日までの40日間[1]日曜日は数えないので実際は46日間を四旬節として厳しく守り、肉類や乳製品を摂らないなどの節制をおこないました。ところが、断食を守らずに贅沢したい人たちもいるわけで、四旬節の期間にバターをはじめ乳製品を食べる権利を手に入れる、いわゆる免罪符のようなものを求めて教会へ寄進されたお金で建てられたことから、この名がついたそうです。ちなみにフランス中部にあるブールジュのサンテティエンヌ大聖堂にも同様の「バターの塔」が存在します。また、ニースやリオなど各地で有名なカーニバル(謝肉祭)は、慎ましく送る四旬節に入る前に大いに楽しんでおこうというお祭りです。
もうひとつこの町を有名にしているのは、ジャンヌ・ダルクです。15世紀、英仏百年戦争のさなかに、劣勢であったフランスでは武装した少女が国を救うという予言が流布されていたといわれます。そこに現れたジャンヌは人々から強い支持を受け、オルレアン包囲戦で奇跡的な勝利をおさめました。これにより王太子シャルルがフランス王として戴冠することになるものの、イングランドと同盟関係にあったブルゴーニュ軍に捕らえられ、ルーアンで宗教裁判にかけられるのです。その結果、1430年5月30日に、異端者として火刑に処せられました。しかし、フランスでは、ジャンヌ・ダルクは神秘的な力を持った英雄として崇拝されていくことになります。処刑の場所となった旧市場広場には、彼女を祀る教会が建ち、その像の前では今も祈りをささげる人が絶えません。
ルーアンの街の紋章は、キリストを表す神の子羊。青い部分に三つ並んだ花はフランス王家の象徴fleur de lysフロー・ドゥ・リスです。ユリの花という意味ですが、この花はアイリス(アヤメ属)、特にキショウブを意匠化したものだといわれています。
ルーアンにはCaneton à la presseとかCanard à la rouennaiseとかの名が付く郷土料理があります。パリの老舗レストランのトゥール・ダルジャンで名物として有名な鴨または仔鴨の料理です。ローストした鴨の胸とももの肉を切り取り、残りの部分を専用の圧搾機で搾ります。それを味付けしたソースを、スライスした胸肉にかけるというもの。もも肉は別に提供します。日本人には抵抗がある人も多いのでは。
パリのトゥール・ダルジャンTour d’Argentへ行くと、透明のカバーで覆われたテーブルセッティングが目に入ります。これは1867年に当時の超有名店だったカフェ・アングレ[2]1913年に閉店で、プロイセン王ヴィルヘルム1世[3]のちのドイツ皇帝がロシア皇帝アレクサンドル2世とその息子の皇太子[4]のちの皇帝アレクサンドル3世を招いてもてなした、所謂「三皇帝の晩餐」の際のテーブルの再現です。この晩餐は8時間にわたって16品のコースで構成されたのですが、その中で肉料理のひとつとして出されたのがCanetons à la rouennaiseでした。両レストランの経営者が同族とのことで受け継がれているようです。