清張の推理、サスペンス作品で面白さのひとつが素人探偵の活躍です。本来は犯罪捜査や素行調査などとは無縁のはずの人物が、事件に巻き込まれたり、あるいは自ら踊り込んだりして謎を解き明かしていきます。大抵の場合、小さなヒントを頼りに手探りでスタート。ときにその直感や推理が的中することもあれば、まったくの見当違いであらぬ方向へ突き進んでは行き詰ることもあります。数ある清張の素人探偵ものの中でも個人的に気に入った作品をご紹介します。( )内は単行本の刊行年。
●市長死す(1956年)
月刊誌「別冊小説新潮」に掲載されて、同年に短編集「顔」に収録。
田山与太郎は、陸軍中将として朝鮮戒厳司令官の立場で終戦を迎えました[1]清張自身も終戦時には朝鮮にいた。現在は九州の人口10万の小さな市の市長になっています。田山市長は、陳情のために市議会議員3名と秘書を伴って上京し、最終日に歌舞伎座での新国劇を鑑賞。その幕間に休憩室でテレビを見たあと、市長の様子がおかしくなり、自分は志摩川温泉へ行くので先に議員を連れて地元へ戻るよう秘書に伝えます。しかし、それきり市長は帰らず、6日目になって、志摩川温泉の警察署から市長が急死した旨の電報が届いたのです。志摩川渓谷沿いの断崖に建てられた旅館の、客室の露台[2]バルコニーから転落したのだとか。市議会議員の笠木は、死体を引き取るために市長の実弟や市議会議長らとともに現場の「臨碧楼」へ向かいます。状況から見て市長の死は事故のようです。何故市長が予定を変えて志摩川温泉を訪れたのかが不思議でならない笠木は、その理由を探るべく市長の日記を借りて読んでみることにしました。そこからは、終戦直後の混乱の中で、副官の山下中尉に対して、官金8万円を福岡の西部軍司令部へ届けるとともに、女中頭芳子を佐賀の実家へ連れて逃げるよう命じたことがわかります。しかし、田山が帰国後に確認すると司令部に官金は届いておらず、芳子は一旦は実家に戻ったものの、すぐに山下と結婚すると告げて出て行ったようです。日記からは、信頼して託した副官に金と女を奪われた田山が、血眼になって二人の行方を捜していた様子が覗えます。笠木は、田山市長が歌舞伎座の幕間の何かのきっかけで、芳子と山下が志摩川温泉にいることを知ったに違いないと察知しました。田山はそれをどのようにして知ることになったのか、志摩川温泉で何が起きたのか、彼の死は本当に事故だったのか、などという謎が徐々に明かされていくのです。「志摩川温泉」の名は清張の創作です。作中で「志摩川温泉は、渓谷に臨んで旅館がならび、附近は国立公園になっており、東京から急行で二時間で行けるところなので、有名である」と書かれていることから、鬼怒川温泉をイメージしているのはほぼ間違えないでしょう。
●彩霧(1964年)
前年に「オール讀物」に連載された作品。
大手市中銀行のひとつ福栄銀行の池袋支店に勤務する安川信吾は28歳。銀行の現金500万円を持ち出し、キャバレー「コスタリカ」のホステス、小野啓子と九州へ向かいました。彼は、銀行の取引企業の脱税のために用意されている、隠し口座を網羅した黒革の手帳を手にしており、銀行側は迂闊に警察へ届け出ることはないだろうと高を括っています。ところが、彼の拐帯は新聞記事となり警察から追われる身に。慌てた彼は大学時代の友人である知念基(ちねんはじめ) と田村捨吉(たむらすてきち)に銀行との交渉を頼みます。その交渉は首尾よく完了したと思いきや、安川は呆気なく逮捕されてしまいました。銀行の狡い手口に憤る知念は、田村とともに行動を開始。安川から知らされていた手帳記載の極秘情報をネタに、銀行への仕返しを画策します。しかし田村は銀行側に懐柔され、頼りにした大物高利貸しの須坂庄作には騙され、八方塞がりとなってしまった知念。それでも単身、大きな敵に立ち向かおうとするのです。彼は手始めに田村と啓子、それに釈放されていた安川の行方を探りだそうとします。その向う先にはどんな冒険が待ち受けているのか。
件の手帳を持ったまま行方の分からない啓子を見つけようと、田村が知念に向かって言うのが「そんなら、まず女を捜せ、やな」です。これはフランスの”Cherchez la femme”シェルシェ・ラ・フェム「女を捜せ」という探偵小説の常套句。「犯罪の陰に女あり」のもとになったフレーズです。アレクサンドル・デュマ・ペールの”Les Mohicans de Paris”「パリのモヒカン」(1864年)に出てくる、警察署長のジャッカルが何度も言った言葉が始まりだといわれます[3]フランス語版wikipedia。それ以来、日本も含めて各国の作家が繰り返し使用しているので、目にしたことがあるかもしれませんね。
●アムステルダム運河殺人事件(1970年)
清張自身が作中で触れている通り、このお話は1965年に実際に発生し、迷宮入りとなった事件を下敷きに書かれています。「殺人事件」がタイトルに付いているのは清張作品としては珍しいですね。
オランダの首都アムステルダムは水の都。12世紀に、アムステル川の河口付近で暮らしていた漁師たちによって堤防(ダム)が築かれたことが町のはじまりです。現地では略してアーダムと呼びます。アムステルダムの中心地では、美しい中央駅を北端として王宮や町の象徴的広場ダム、デパートや商店が集まった繁華街を幾重にも取り囲むようなU字型の運河が流れ、さらにそこから放射状に延びるいくつもの運河。そのうちのひとつヤコブ・ファン・レネップ運河に浮かんでいた、大きなジュラルミン製のトランク。中から発見されたのは首と両脚、両手首のない男の死体でした。やがてその被害者は、隣国ベルギーのブリュッセルに赴任して間もない、坂崎次郎という貿易会社の駐在員だとわかります。ベルギーとオランダの警察の捜査によって、坂崎と親しくしていたやはり独身の駐在員、雨宮重太(あまみやしげた)が容疑者として浮かびました。しかし、彼はオランダ方面へ向かう道路のトンネル内で自動車事故を起こし、命を落としてしまいます。真相がつかめぬまま迷宮入りとなった事件。その数年後、経済記者の「私」は、犯人と疑われていた雨宮とごく親しかった人物からの依頼で、医師の久間鵜吉とともに現地での調査へと赴くことになったのです。ふたりはいくつもの疑問を解消するために、目撃者、関係者に聞き取りをしながら丹念に調べていきます。ひたむきに取り組む姿は本物の刑事や私立探偵の如くの健闘と言えるでしょう。なぜ坂崎は殺されたのか、殺人が行われたのはどこなのか、なぜ手首を切断したのか、雨宮の事故死との関連はあるのかといった謎が少しずつ解明されていくのです。
彼らが何度か立ち寄るのがブリュッセル郊外のSchaerbeekスカールベーク(オランダ語:Schaarbeekスハールベーク)という町。ブリュッセルで働く人たちのベッドタウンのひとつであり、東欧やトルコ、モロッコなどからの移民が多いことでも知られています。
よく知られている通りベルギーはビール大国です。一人当たりの生産量ではチェコやアイルランド、オランダと並んで世界有数で、しかもその種類の多さには圧倒されます。中でもベルギー独特なのが、ブリュッセル首都圏とその西隣のパヨッテンラント地域で昔からつくられているLambiekランビーク(フランス語:Lambicランビック)です。麦芽を原料に、ワインのように自然発酵させて2種類をブレンドするのが特徴。そのうちのひとつKriekクリークは、酸味が強く苦みもあるモレロ種のサクランボPrunus cerasus(スミノミザクラ)を加えて二次発酵させます。スカールベークはこのサクランボの産地で、クリークの製造に使うために収穫したサクランボをロバに載せてブリュッセルの市場まで運んだことから、ロバの町ezelstadエーセルシュタット(あるいはde ezelsgemeenteドゥ・エーセルスゲメーンテ[4]gemeenteは自治体の意味)(フランス語:la cité des ânesラ・スィテ・デ・アーニ)と呼ばれているそうです。
清張はこの小説を執筆するにあたり、現地へ取材に赴きました。その内容は「作家の手帖」(1981年文藝春秋社刊)に「アムステルダム運河殺人事件・取材ノート」として詳しく描かれています。
●火神被殺(1973年)
1970年に小説誌に掲載され、短編集の表題作となりました。
タイトルの火神被殺(かしんひさつ)とは、日本神話の火の神で「古事記」に出てくる軻遇突智(かぐつち)[5]別名、火之夜藝速男神(ひのやぎはやおのかみ)が、産まれた際に伊弉冉尊(いざなみのみこと)を焼死させたことで、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)に斬り殺されたという話によるものでしょう。この小説は、清張お得意の原題の犯罪捜査と古代史研究の結合です。医者である「ぼく」は、同好の士である砂村保平助教授や仲間と日本古代史について語り合うことを楽しみとしています。その集まりに時おり顔を出す若い長谷藤八は、痩せて蒼白な顔の男。よく「旅」に出かけるとかで、2、3か月も姿を見せないことがあります。彼の妹によると、その「旅」が今回は3年ほどかかるのだそうです。
その3年後の昭和43年。かつて松江で警察官をしていた「ぼく」の甥の木谷利一が、いまは鉄鋼会社に勤めながら東京暮らしです。「ぼく」の家へも度々遊びに来るようになっています。利一は昭和40年にある事件の捜査中、松江のA旅館の宿帳書き替えというおかしな事案に遭遇したものの、事件に直接関りがなく、しかもその後に自身も辞職したため忘れていました。ところが、最近帰省した際、昭和41年に、湯村温泉[6]松江の40㎞ほど南西付近の山林で白骨バラバラ死体が発見されていたことを知ります。宿帳の一件と関連があるのではないかと感じた利一は、少ない手がかりを頼りに探り始めるのです。すると、宿帳記載の名前から意外なところに接点が見つかりました。そこから推察されるのは、発覚を恐れた殺人事件の犯人が、別の人物に依頼して宿帳を書き換えたに違いないということ。漠然とした疑惑を明らかにするため、利一と「ぼく」は島根へと向うのでした。
日本神話の原型を海外の古代に遡る説話などに求めることは、多くの研究者が繰り返し行ってきていますが、似たような話を見つけることこそあれ、決定的な資料は存在しないのが現実。作中で長谷はヒッタイトの伝承と記紀[7]「古事記」と「日本書紀」の総称の類似性を主張しています。途中の経緯なしに突然そこへ繋げるのは、荒唐無稽というよりも余りにも雑な推論と言っていいかもしれないですね。また「ヒッタイト人は旧約聖書にヘテ人として出てくる」というのも?。19世紀にイギリスのアッシリア学者アーチボルト・セイスが、古代アナトリアを中心に帝国を築いた民族を聖書に記載されたヘテ人(びと)[8]神がイスラエルの人々に根絶やしにするよう命じた先住の6部族のうちのひとつ(申命記20章)と断定し、ヒッタイトHIttietesと名付けました。しかし、今のところこれを確実に証明する裏付けはありません。それと長谷さん、「目には目を歯には歯を」はコーランではなくてハンムラビ法典[9]紀元前18世紀にバビロニア王ハンムラビが制定したとされるですよ。尤も、イスラム法にはこの「目にを目を」が元になった、キサースと呼ばれる正当な報復として被害と同等の罰を与える刑法は存在しますが。また、旧約聖書の出エジプト記21章にも、モーセの律法の一部として同様の報復刑が示されていることから、これは古くから継承されていた倫理観だったのでしょう。
●象の白い脚(1974年)
全編がラオスLaosの首都ビエンチャンVientianeを舞台としたお話です。ラオスというと東南アジアにあるのはなんとなく分かっても、正確な位置関係にしろ産業や文化、日本との関係などもあまり知られていないのではないでしょうか。東はベトナム、西はタイ、南はカンボジア、北に中国とミャンマーといった国々に囲まれた内陸国です。面積は約24万㎢で、ヨーロッパで言うとイギリスとほぼ同じぐらいになります。IMF[10]国際通貨基金の統計データでは、2021年の名目GDPは約185億USD。これは隣国ベトナムのおよそ20分の1しかありません。
物語は、谷口爾郎(じろう)がビエンチャンへ向かっている飛行機の機内から始まります。当地で横死した、知人で作家志望の石田伸一の死の真相を調べるためです。時は1969年。ベトナム戦争の真っ最中であり、ラオスにおいても三派による内戦が繰り広げられていました。ラオスを含むフランス領インドシナ連邦は、1945年3月9日[11]東京大空襲の前日に日本軍によって解放され、ラオスにもラオス王国が誕生。ところが、半年もたたずに日本が敗戦したため、その後のインドシナ戦争の時代へ突入していたのです。結果的に1975年にパテト・ラオPathet Lao[12]ラオス愛国戦線主導によるラオス人民共和国が成立し現在に至っています。そんな当時のラオスの不安定な状況は、清張自身の綿密な取材によって本書の中で詳細に綴られているものの、ある程度は背景的なことを事前に知識として仕入れておくと、より楽しく読むことができるかもしれません。
この小説は、小説誌に連載されていたときには「象と蟻」というタイトルでした。それが単行本化された際に改題されたのです。ラオス王国の国旗には3頭の白象が描かれており、それを想起させるタイトルですが、同時に巨大な象であるアメリカの足元で蠢く、蟻としての登場人物たちも意味していると解釈しました。
谷口が調査を開始すると、機内でも隣席にいて同じホテルに逗留中だったオーストラリア人が何者かに殺害されます。その男が読んでいたのが、題字にナーガが絡みついたタイ語の新聞。しかし現地の人たちは誰もそんな新聞は知らないと言います。
作中に何度も表現されているように、ビエンチャンは首都でありながら小さく侘しい町です。人間関係は限られています。書店の支配人であり、通訳として谷口に同行しながら様々な情報を提供する山本実。彼の雇い主で当地では名士として顔がきく、レストランと書店のオーナー平尾正子。吞んだくれでうらぶれたフランス人記者のシモーヌ。妻子を日本に残して長く海外赴任を続けている東邦建設技術主任の杉原謙一郎。こういった人々と関りながら、谷口は石田の足取りを追ってキャバレーや怪しいバー、さらには売春宿から阿片窟にまで足を踏み入れて調べを進めていきます。石田やオーストラリア人はなぜ殺されたのか。ナーガの新聞には何の意味があるのか。ビエンチャンと隣国タイの国境を流れるメコン河の水流にどんな秘密があるのか。何やら大きな陰謀が隠されているようです。谷口が辿り着く先には何が待ち受けているのでしょうか。
本編でも紹介されているラオスの国花がプルメリアです。現地ではDok Champaドク・チャンパと呼ばれます。ドクというのは花の意味です。プルメリアはキョウチクトウ科で熱帯地域に広く分布します。蝋細工のような厚く光沢のある5枚の花弁をつけ、甘い香りがするのが特徴です。ハワイやタヒチといった太平洋の島々でよくレイに使われます。ちなみにプルメリアはハワイ語ではPua Maliaプア・メリア。カタカナだと似ていますが、プルメリアはPlumeriaと書き、17世紀フランスの植物学者シャルル・プルミエCharles Plumierにちなんで名付けられたものです。
●死の発送(1984年)
この小説を読んだのは単行本になってからですが、もともと週刊誌、小説誌に掲載されたのは1961年から62年にかけてでした。
主人公の底井武八は、夕刊紙のみを発行する三流のR新聞社記者で、まだ30歳手前の青年です。N省の役人だった岡瀬正平が5億円もの大金を着服し、その罪で7年間の服役を経て戻ってきます。横領したお金の大半はバーやクラブで豪遊したり、競馬につぎ込んだり、半端な事業を起こしたりして費やしたことが分かってはいても、1億円ほどの使途が不明なのだとか。その金がどこかに隠されていて、出所後にそれを持ち出すであろうと睨んだR新聞編集長の山崎は、底井に岡瀬の張り込みと尾行を命じます。叔父の雑貨屋を手伝う岡瀬が出掛ける度に、その後をつけては山崎に報告する底井。彼は編集長がこの件に余りに執着していることが気になります。ある日、底井が目を離した隙に岡瀬は旅に出てしまいました。行先は、逮捕される前に亡くなった母の墓がある、福島は飯坂温泉近くの村です。仕方なくその帰りを待っていた底井は、他社の新聞で岡瀬殺害の記事を目にします。これを隠し金絡みと見た山崎の命で底井はさらなる調査へ赴くことに。すると今度は山崎が失踪。底井は岡瀬事件と関係があるに違いないと確信してひとり調べを続けます。尾行中に岡瀬が訪れた府中の東京競馬場や神楽坂などで少ないヒントを頼りに謎を紐解こうとするのです。やがて山崎がトランク詰めの遺体となって発見されます。しかも場所はまたも福島。そのトランクは、国鉄[13]日本国有鉄道・現JR(東日本)田端駅で託送手荷物として預けられ、郡山駅で引き取られたものでした。ちょうど時期は福島競馬の開催中。馬主、調教師、厩務員といった関係者の行動を探っていた底井は、列車の利用にトリックがあることに気付きます。時刻表と首っ引きで推理した末に判明したのは…。
面白いのは競馬の馬券(勝馬投票券)についての描写。その後主流になる8枠連勝複式馬券(1、2着の馬の枠番を着順に関係なく当てる)が導入されたのは1963年です。岡瀬が馬券を買う場面を読むと、この作品が書かれた頃にはまだ枠番連勝単式(1、2着の馬の枠番を入線順に当てる)が存在していたことがわかります。
今では物流の中心はトラック。当時は主に車両に持ち込めない大型の手荷物などを別送する旧国鉄のチッキ[14]英語の預かり札checkからと呼ぶ託送手荷物が一般的でしたし、競走馬も地方へ遠征する際には鉄道で輸送されていました。この作品は少し前にテレビドラマになったようです。でも設定は現代になっていて、宅配便や馬運車[15]競走馬などを輸送する大型自動車に置き換えられていたらしく、折角のトリックの見せ場はなしということだったのでしょう。
References
↑1 | 清張自身も終戦時には朝鮮にいた |
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↑2 | バルコニー |
↑3 | フランス語版wikipedia |
↑4 | gemeenteは自治体の意味 |
↑5 | 別名、火之夜藝速男神(ひのやぎはやおのかみ) |
↑6 | 松江の40㎞ほど南西 |
↑7 | 「古事記」と「日本書紀」の総称 |
↑8 | 神がイスラエルの人々に根絶やしにするよう命じた先住の6部族のうちのひとつ(申命記20章 |
↑9 | 紀元前18世紀にバビロニア王ハンムラビが制定したとされる |
↑10 | 国際通貨基金 |
↑11 | 東京大空襲の前日 |
↑12 | ラオス愛国戦線 |
↑13 | 日本国有鉄道・現JR(東日本) |
↑14 | 英語の預かり札checkから |
↑15 | 競走馬などを輸送する大型自動車 |