松本清張の「女」

清張の小説には女を主人公に据えた作品が目立ちます。お金のために犯罪に手を染める悪い女、真相を求めて自ら調査に乗り出す勇敢な女、ひたすら男に尽くす健気な女、欲にまみれてどこまでも深みにはまっていく愚かな女、奸智に長けて他人を陥れようとする邪な女、ここでは、ズバリそんな「女」をタイトルに含めたお話を簡単にご紹介しましょう。

●悪魔にもとめる女(1955年)
1954年の「オール讀物」掲載時には「女囚抄」のタイトルで、短編集として出版された際にこの表題となり、のちに「距離の女囚」と改題されました。現在は別の短編集「共犯者[1]新潮社など」に収録されています。
女囚刑務所に詐欺罪で収監されている「私」が、図書室の雑誌でかつての夫の写真を目にしたことから、その夫に宛てて自身のやるせない思いを書き綴る、手紙の形式で書かれているお話です。
大きな印刷所を経営する父は「私」に婿養子をもらって会社を継がせるつもりでいました。多くの縁談がありながら「私」が一目惚れした英夫は、「土を掘っては古い壺の破片や石を集めている妙な趣味の男」です。結婚後も父の店で働きながら、夜は考古学の研究に没頭しています。会社でも家庭でも絶対的な存在である父と一心不乱に学問と向き合う英夫。その確執は徐々に拡がって、遂には夫婦も破局を迎えます。さらに父の死と、それに伴い引き継いだ会社の経営難。何とかして乗り越えようとしていくのですが…。


●地方紙を買う女(1957年)
「小説新潮」に掲載された短編です。同年、「白い闇」(角川書店)に収録されました。現在は、「松本清張全集〈36〉」(文藝春秋)や「張込み 傑作短編集5」(新潮社)などに所収されています。

Y県K市で発行されている「甲信新聞」は、Y県のみで流通する地方新聞です。世田谷区烏山に住む潮田芳子が、その新聞の定期購読を申し込みます。連載中の小説「野盗伝奇」を読みたいからというのは表向きの理由で、実は別の目的がありました。バー・ルビコンに勤める芳子は、毎朝届く甲信新聞を隅から隅まで読みます。当然のことながら、地方紙には全国紙では取り上げられないローカルネタが掲載されているので、それが彼女の目当てです。しかし、連載小説の作家である杉本隆治から礼状のような葉書が届きます。おそらく新聞社からの情報で、彼女が小説のファンであると思われたのでしょう。そして一月ほど経ったある日、芳子は紙面にようやく待っていた記事を発見。臨雲峡で男女の腐乱死体が見つかったこと、続報としてふたりの身元とともに無理心中であろうことを伝えるものです。これに満足した彼女は、新聞社宛に小説がつまらなくなったので購読をやめる旨の連絡をします。その情報を聞き、不快で不審に思ったのは杉本です。新聞購読には他の理由があったのではと調べて、臨雲峡の情死事件に行き当たります。探偵社に依頼して判明した事実から、芳子がこの事件に関わったに違いないと考えた杉本は、バー・ルビコンに姿を見せたのです。徐々に親しくなり、同時に探り合うふたりの行く末は…。
K市とは甲府市のことでしょう。なので、臨雲峡なる架空の地名は昇仙峡をイメージしていると推察されます。
芳子の働くバーの名前はルビコン川のルビコンのことですかね。ルビコン川は紀元前49年、ガイウス・ユリウス・カエサル(シーザー)が、任地ガリアから禁を犯して本国へ向うために渡った境界線の川。スエトニウスSuetoniusが著した「皇帝伝」”De vita Caesarum”の中で、「賽は投げられた」の名言とともに語られます。この時代には、イタリア半島の背骨に当たるアペニン山脈から、エミリア・ロマーニャを東に流れてアドリア海に注ぐルビコン川[2]当時の川筋は明確ではないと、逆に西へティレニア海に注ぐアルノ川とを繋ぐ東西のラインが辺境に対しての防衛線でした。

この小説は映画化は1959年の1回のみ(タイトル:「危険な女」、主演:岡田茉莉子)なのですが、テレビドラマは繰り返し制作されています。1973年に「恐怖劇場アンバランス」第6話として放映された作品(主演:夏圭子)は、原作に忠実で小山内美江子の脚本ということもあり、良い出来ばえだったと思いました。

左:スエトニウスの「皇帝伝」写本 / 右:昇仙峡

●巻頭句の女(1958年)
これも「小説新潮」に掲載された短編小説で、単行本としては1962年の「危険な斜面」(文芸春秋)への収録[3]新潮社版「駅路 傑作短編集6」にも所収です。
俳句の雑誌、同人誌などには、特にお題を決めないで自由に投稿された句から選んで載せる「雑詠」というコーナーがあります。多くの俳句が並ぶ中で、最初の位置に掲載される句が巻頭句。通常は選者がもっとも優秀と認めた作品になるので、投稿者にとっては大いに名誉なことであり、それを目指して句作に励む人も少なからずいるでしょう。月間俳句雑誌「蒲の穂」に昨年から投稿を続けて、雑詠欄の巻頭句を飾ったこともある志村さち。病気のために隣県の施療院で暮らす彼女からは、ここ三月も投稿がありません。主宰者の石本麦人(ばくじん)は、俳句を能くする彼女が気になり手紙を送りますが音沙汰がなく、心配になって若い同人の藤田青沙(せいさ)とともに施療院を訪ねました。すると、さちは末期の胃癌を患っていたこと、3ヶ月前に退院し、同郷の岩本英太郎なる男と結婚して中野に住んでいることがわかります。彼女の現状を知ろうと青沙は岩本宅へ向かったのですが、さちはすでに亡くなり、岩本も転居済み。青沙が家主や近所の人たちから聞き込んだ、岩本とさちの普段の生活や葬儀の様子などの情報を知らされた麦人の頭には、ある疑惑が浮かんでくるのです。
清張は俳句や俳人を題材にしたり、俳句を趣味とする人物が登場する作品をいくつも書いています。「菊枕ーぬい女略歴ー」[4]新潮社版『或る「小倉日記」伝』所収や「花衣」(のちに「月光」へ改題)は女流俳人を主題に描かれた作品。「二つの声」(光文社版等「弱気の虫」所収)では俳句仲間の4人が野鳥の声を聞きながら連句[5]5-7-5の長句と7-7の短句を交互に重ねるを楽しむ姿が描写され、「時間の習俗」では、俳句の同人誌が事件解決にも結び付く重要なファクターになっていました。


●鉢植を買う女(1961年)
同年に月刊誌に連載されていた「影の車」の第7作で、そのまま短編集「影の車」(中央公論社など)の第4話として収録されました。映画化はされていないものの、テレビドラマには何度もなっています。
上村楢江(かみむらならえ)はA精密機械株式会社に勤める最古参のOLです。容姿の悪さから結婚には縁が無く、周りの女子社員が次々と寿退社していくのを横目で見ながら、その不幸な行く末を想像してほくそ笑んでいます。彼女は退職した警備員に倣い、会社の同僚たちに月1割の利息を取っては現金を貸していて、いずれ貯めたお金でアパート経営をしようかと考えているのです。その副業の常連のひとりが杉浦淳一。毎週末には競輪場へ出かける大のギャンブル好きです。淳一の借金が嵩んできたある夜、彼は楢江の自宅を訪ねます。なんとか上手く男女関係に持ち込んで、そのままずっと金蔓にしてしまおうという魂胆のように思われますが、果たして…。
楢江がある目的で鉢植えを買い集めるようになります。それは棕櫚(シュロ)、芭蕉(バショウ)、フェニックスなど。いずれも南国風で大型の観葉植物です。当時はまだ「観葉植物」という言葉は一般的ではなく、陶器の鉢に植えられた葉が美しい植物を、家庭やオフィスで長く楽しむ習慣が根づき始めた時代でした。シュロ(学名Trachycarpus fortunei) はヤシ科シュロ属。束子や箒の材料になることはよく知られていますし、耐寒性も高いので庭木にも利用されます。小生の実家でも塀沿いに列植されていました。バショウ(学名Musa basjoo)は英語名のJapanese bananaジャパニーズバナナの通り、バナナの仲間で大きな葉も似ています。でも果実は食用になりません。かの松尾芭蕉の俳号はこの植物の名から付けられたことはご存知でしょうか。フェニックス(学名Phoenix canariensis)は宮崎の県の木のひとつとして有名。学名になっているように、スペインのカナリア諸島が原産です。18世紀にスペインからの宣教師が持ち込んだことによってカリフォルニアに根付きました。ロサンゼルスやサンディエゴ、サンフランシスコといった町では、街路樹や公園樹として当たり前に見られます。名門スタンフォード大学(Leland Stanford Junior University)のキャンパス内に多数植えられたフェニックスも印象的です。

左:シュロ / 中:バショウ / 右:スタンフォード大学のフェニックス

●肉鍋を食う女(1975年)
3話構成の「ミステリーの系譜」のひとつとして、1967年に「週刊読売」で連載されていたノンフィクション小説です。昭和20年に群馬で起きた継子殺害事件を中心にして、同様の事件を詳細に考察した作品。内容があまりに猟奇的なのでここでのご紹介は断念します。

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●馬を売る女(1977年)
もとは小説シリーズ「黒の線刻画」の第3話「利」として日本経済新聞に連載していて、単行本化の際に改題されました。
星野花江は繊維問屋の日東商会に社長秘書として長く勤める所謂オールドミスです。仕事の能力は高いものの女性としての魅力に乏しく、社交的でもないため社内でも孤立しています。彼女は将来のために貯蓄には余念がなく、多くの社員を相手にして、月に7%の利息で現金を貸す社内金融を営んでいるのです。この辺りは「鉢植えを買う女」の楢江に似ています。でも、花江はさらに別の副業も。日東商会の米村重一郎社長は、有力な競走馬を何頭も抱える馬主(うまぬし)なので、会社には競馬関連の電話も入ります。それを取り次ぐのも花江の仕事です。電話の内容は、厩舎から伝えられる出走予定の持ち馬についての報告や馬主仲間との情報交換など。花江はそれを秘書室で盗聴し、「連勝にからまない[6]1着あるいは2着にならない馬」の情報を流すのです。相手は彼女に月々の会費を支払っている会員たち。しかし、盗聴の疑いを抱いた米村は、花江が知らないであろう、二次下請けで洋裁店を経営する八田英吉に彼女を調べさせます。調査の過程で花江の副業に気付いた八田は、彼女が相当額のお金を貯め込んでいるであろうと考え、策を弄して近づいていくのです。八田の思惑通り陥穽にはまった花江。ふたりは、米村はもちろんのこと、誰にも絶対に関係を知られないよう気を配りながら逢引きを繰り返します。八田は、事業の資金繰りのために彼女から度々現金を用立ててもらっており、その額はどんどんと膨らんでいきました。ところが、自らの将来設計への不安感が募り始めた花江は、八田に返済を強く迫るようになります。金を返す当てのない八田。やがて本編の冒頭に描写された高速道路の情景に繋がってゆくのです。
ここに登場する高速道路は首都高速道路4号線と中央自動車道。中でもお話のポイントとなるのは、ふたつの道路が接続する高井戸インターチェンジのある個所です。ここには首都高の出入口が作られましたが、周辺住民の強い反対で中央道の出入口が建設できないまま、本書発表の前年に当たる1976年に供用を開始しました。その後、1986年に上り方面の「出口」だけが設置されたものの、下り方面の「入口」はまだありません。世田谷区や杉並区辺りからから中央道で山梨方面へ行きたい場合には、甲州街道を進んで次の調布インターチェンジから乗るか、首都高料金[7]名目上特定料金区間を支払って最寄りの「永福」から入らざるを得ない状態です。


●天才画の女(1979年)
前年に「週刊新潮」に連載された小説を単行本化。
絵画コレクターとして知られる陽和相互銀行社長の寺村素七は、銀座の有力な画廊のひとつである光彩堂から大家の作品を購入した際に、おまけとして進呈された新人の油絵に目を留めました。大家の絵が見劣りするぐらいの新鮮な驚きをおぼえたためです。寺村は光彩堂の中久保社長にその新人画家、降田良子(おだよしこ)の絵をできるだけたくさん持ってくるように頼みます。良子が画廊に持ち込んだ絵は5枚でした。しかし、ほかの絵も寺村の場合と同様に顧客への付録として手放され、手元には1枚しか残っていません。中久保は良子の住む東中野の玉泉荘アパートを訪問します。彼女は画家としての実績がないにも関わらず、1室10万円の部屋を居室とアトリエ用にふたつ借りているそうです。でも、そこには描き溜めた絵も制作中の作品もありません。また、良子は特定の画家などに師事したことはなく、無名の女子美術学校を出ただけだと言います。中久保は寺村のための新作を良子に依頼し、支配人の山岸には、彼女の美校時代の講師を捜して情報を聞き出す役を命じました。

それからおよそ1年後、降田良子は光彩堂と寺村の後押しで京橋のRデパートでの作品展を開催するまでになり、評論家からも注目される画家のひとりと言われています。光彩堂とはライバル関係にある叢芸洞画廊の小池直吉支配人は、期待の新人を独占しようとする光彩堂のやり口に反感を感じ、また若い女流画家の「天才画」の能力に疑問を抱いたことから、その源流を探るために良子の故郷、福島県真野町へ向かうのです。真野町は架空の地名。かつて福島浜通り[8]福島県東部に真野という村がありました[9]現在は鹿島町の一部が、作中の描写では中通り[10]福島県中部にあるようです。おそらく郡山から乗り換えて少しいった辺りを想定しているのかと思います[11]中島河太郎は解説で三春町がモデルと記載。良子の実家は4代続く老舗の大きな和菓子店「降田山湖堂」。そこには良子の父の従兄という小山正雄なる老人が同居しています。戦場で頭に傷を負い、精神障害があるそうです。菓子舗の一角では、良子の兄の敬二が小さなカメラ店を営んでいます。なんでもカラーフィルムの現像焼付は引き受けるのに白黒フィルムの現像焼付は行わないのだとか。小池は病床に臥せっている大江社長に逐一報告をしながらさらなる調査に。やがてある仮説に辿り着き、確証を得るために奔走していくのです。
定価のない美術品の世界。業界の構図と裏側を清張ならではの切り口で描写しています。画廊に持ち込んだ絵を二束三文で引き取られた画家が、著名な人物の一言で評価が一変して、いきなり関心を集める存在になることもあり得るのだと思いました。

左:三春の滝桜

最後にアメリカ輸入の流行語として紹介されているのが「不確実」。週刊誌連載中の1978年に日本でベストセラーとなった、カナダ出身の経済学者ジョン・ケネス・ガルブレイス[12]1908-2006の著書「不確実性の時代」”The Age of Uncertainty”のことです。uncertaintyが不確実性の意味で、先が見通せないことや当てにならないことを表現する際に使われる言葉。ひと昔前ぐらいから聞かれるようになったVUCAワールドという単語があります。これは現代世界を表すVolatility(変動性)、Uncertainty(不確実性)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性)という4つの構成要素のこと。もとはアメリカの軍事用語でしたが、現在では広く一般に使われるようになり、特に企業経営に活用される場面が多いようです。

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References

References
1 新潮社など
2 当時の川筋は明確ではない
3 新潮社版「駅路 傑作短編集6」にも所収
4 新潮社版『或る「小倉日記」伝』所収
5 5-7-5の長句と7-7の短句を交互に重ねる
6 1着あるいは2着にならない
7 名目上特定料金区間
8 福島県東部
9 現在は鹿島町の一部
10 福島県中部
11 中島河太郎は解説で三春町がモデルと記載
12 1908-2006