松本清張の作品で「黒」がタイトルに含まれる小説やシリーズを自分勝手に紹介する第2弾。
今回は「黒の様式」です。
「歯止め」から「内海の輪」までの6編が、1967年(昭和42年)1月に始まり1968年(昭和43年)10月に至る期間に「週刊朝日」で連載されました。
単行本化された際に「黒の様式」として収録されたのは、「歯止め」、「犯罪広告」、「微笑の儀式」の3編のみです。
▼歯止め
津留江利子(つるえりこ)には4歳違いの素芽子(そめこ)という姉がいました。でも23年前に自ら命を絶ったのです。20歳で結婚してから2年足らずの時、自宅で青酸カリを溶かした砂糖湯を飲み亡くなりました。ノイローゼ気味だったと言われますが、遺書はありません。彼女の夫である旗島信雄は11歳で旗島家の養子となり、優秀な成績で名門T大学を卒業。現在はT大工学部の教授で、再婚して大学生の息子がいます。江利子は姉の死後も、何度か誘われて旗島とお茶を飲んだり食事をしたりということがあるので、その際の彼の海外仕込みの洗練された所作をよく承知するところです。彼女は夫の良太と息子の恭太との3人暮らし。高校生の恭太の最近の素行に頭を悩ませています。相談のために恭太の担任教諭を訪ねた江利子は、彼の恩師が義兄の学友であったことを知り、さらにその恩師は良太が勤める会社の課長の兄であることも判明。思わぬところで繋がった関係から、旗島家の闇と江利子の死の真相が見えてくるようです。
旗島家が居を構えるのは代々木山谷(さんや)町。現在の代々木3丁目から4丁目辺りの旧町名でしたが、2015年には渋谷区立の代々木山谷小学校が開校しました。本編には山谷駅の名が出てきます。小田急線で南新宿駅[1]千駄ヶ谷新田駅→小田急本社前駅から改称と参宮橋駅の中間に、小田急線開業の1927年から1946年まで存在した駅。隣接する二駅との間隔が短く利用者も少なかったことが理由のようで廃止され、本作連載時にはすでにありませんでした。山谷の名前が示す通りに坂道の多いこの土地は、「聞かなかった場所」の舞台でもあります。

▼犯罪広告
和歌山県阿夫里(あぶり)町のおもだった人の家々へ、殺人を告発する広告が投げ込まれました。広告を出したのは末永甚吉。20年前に母セイが義父の池浦源作によって殺され、家の床下に埋められているという内容です。それを掘り返して遺骨を渡してほしいと続けています。甚吉は7歳で池浦の家を出てから、苦労して一人前の印刷工になりました。現在は阿夫里に戻り竹内活版所で働いています。この広告は町の大きな話題に。しかし、仮に殺人が真実であってもすでに時効を迎えていることから、警察署長も動きにくい状況です。そのため、蜜柑栽培を生業とする源作に対して、果実出荷組合長が交渉し床下の掘り返しを承諾させました。町中の人たちの耳目を集める中で、源作の家の八畳間の床下にシャベルが入れられることに。さて、そこには甚吉の告発通りにセイが埋められているのでしょうか。それともこれは甚吉の勝手な妄想なのでしょうか。

▼微笑の儀式
ここでいう微笑とは、「古代の微笑」つまりアルカイック・スマイルArchaic smile(清張は「古拙の笑い」アーケイックスマイルと記載)のこと。archaic[2]発音はカタカナにするとアーケイークは古代の、初期のを意味する英単語。歴史学では、古代ギリシャの古典期と暗黒期の間、紀元前800年ごろから紀元前480年までをアルカイック期とよびます。紀元前480年は、アケメネス朝ペルシャのクセルクセス1世がギリシャに攻め入った[3]第二次ペルシャ戦争年。クセルクセスはテルモピレー[4]ギリシャ中部の峠の戦いでスパルタ軍を退けた[5]これをベースにしたファンタジー映画「300」は有名ものの、サラミス[6]アテネに近いサロニコス湾に浮かぶ島の海戦でアテネ率いる連合艦隊に敗れました。これが歴史上の大きな転機とされるため、アルカイック期の区切りとなっています。余談ですが、小生の史学科でのゼミナールは、”From Solon to Socrates : Greek history and civilization during the sixth and fifth centuries B.C.”「ソロンからソクラテスまで、紀元前6から5世紀の間のギリシャの歴史と文化」(ヴィクトル・エーレンベルク著・1968年刊・邦訳なし)を教材として、これに合わせてヘロドトスの「歴史」とツキジデスの「戦史」を読み解きながら、ペルシャ戦争とペロポネソス戦争を研究するというものでした。そのため、テルモピレーもサラミスも目の前で繰り広げられる戦いを実況するが如くに検証したことを思い出します。


そんなアルカイック期に生まれたとされる彫刻の微笑が、美術や建築などのヘレニズム文化のひとつとして東へ東へと伝り、日本の飛鳥時代の仏像に影響したとされるのです。
さて、物語は法医学を專門とする鳥沢博士が、法隆寺を訪ねるところから始まります。博士はここで仏像を熱心に見つめる男と知り合いました。和辻哲郎の著書「古寺巡礼」の中のその仏像に関わる一節を暗唱できるほどの愛好家にみえる彼は、飛鳥時代の仏像の微笑にとり憑かれていて、その表現だけを追求している彫刻家なのだそうです。それからは数か月後、博士は新聞上の展覧会の記事で、新井大助の「微笑」という彫刻の作品評を目にします。法隆寺で出会った男を連想した博士は展覧会場へ。果たして「古拙の笑い」をたたえた等身大の石膏像は、やはりあの男の作でした。博士は新井と再開後、その作品の前で保険調査員の島上から話しかけられます。なんでも11か月前に2000万円の生命保険に加入した女性が自宅で死亡し、それが事故死か自殺か、あるいは他殺かを調べているそうです。その女性の顔が「微笑」の石膏像と余りにもそっくりなので、一部では像はデスマスクから取ったのではないかとの噂もあるとか。ある毒物によって死後に起こる、微笑に似た口元の痙攣を知る法医学博士は、警視庁の石井警部補に相談。提供された情報を頼りに調査に赴くのでした。

▼二つの声
次項「弱気の虫」が表題の単行本に収録されています。このお話の記事はこちら。
▼弱気の蟲
川島留吉はある官庁の課長補佐です。39歳の今日まで勤勉で律儀に働いてきました。しかし、東大卒でないことからエリートコースは外れていて、将来の出世は望めません。そのため「与えられた状況に即する弱い昆虫のような順応技術を身につけて」います。酒も飲まず真面目だけが取り柄の弱気な川島は、ある日役所の人に誘われて麻雀に加わりました。違法な賭け麻雀。その後も度々人数合わせのために声をかけられるようになり、次第に麻雀の面白さにはまっていきます。実力もないうえに点数をごまかされても文句ひとつ言えない性格なので、カモにされて負けが込み支払いに困るような場面も。それでもやめられません。そんな時、公団職員の浜岡が自宅の二階で麻雀屋を始めるから来ないかと声をかけられました。見学に行ってみると固定されたメンバーたちから口々に参加を誘われます。川島はレート(掛け率)が役所麻雀の3倍と高いことが気になりながらも、負けたとしても田舎の山林を売却すればいいと考えて仲間に入ることに。通い始めた頃は勝っていたものの、その後は負けが続きます。田舎に依頼した山林売却の返事も来ず、とうとうサラ金からお金を借りなければならい状態にまでなりました。メンバーへの支払いが滞り、追い詰められた気持ちになった川島は、さらに厄介な事件に巻き込まれてしまうのです。
この作品のタイトルは週刊朝日連載時には「弱気の虫」です。それが光文社で単行本化された際に「弱気の蟲」へ変更されました。虫も蟲も「むし」と読み、虫は蟲の新字体として昆虫や動物の総称、物事に熱中する人、子供の病気といった同じ意味を表します。ただし、虫のほうには、その文字の成り立ちとなったとされるマムシという別の意味もあるそうです。
現在販売中の文庫も光文社版は蟲を使っています。

▼内海の輪
連載時には「霧笛の町」というタイトルでした。
江村宗三は東京の大学で考古学を教える助教授。愛媛県松山市で洋品店を営む西田美奈子とは不倫関係にあります。かつて美奈子は宗三の兄嫁でした。その離婚騒動の際に一度は男女関係になったもののそのままになり、1年ほど前に偶然再会したのです。今は3ヶ月に一度、美奈子が仕入れのために上京する機会に、池袋の旅館で逢う関係を続けています。でも、今回は成り行きから1ヶ月だけの隔たりで、ふたりで中国地方を旅することになったのです。宗三は仕事と偽って岡山へ向かいます。新幹線のビュフェでは思いがけず学生時代の友人である長谷(はせ)と出会い、昔話などをしました。宗三と美奈子の旅程は岡山と尾道で1泊ずつの予定。でも美奈子にどうしてもとせがまれて、有馬温泉でもう1泊することに。翌日はお互い飛行機で帰ると決めたので、予め伊丹空港で航空券を購入。宗三がひとりでいたところ、また長谷と出くわしました。すると長谷が美奈子を見つけて声をかけます。ふたりは洋品関連の知り合いだったのです。そそくさとその場を離れた宗三は、長谷には美奈子との関係を気づかれなかったはずだと思います。ところが、美奈子は長谷の父から夫に話が伝わって、宗三との結びつきが露見してしまうと嘆き、こうなったら自分から先に夫へすべてを話して家を出ると言い出すのです。そんなことをされては困ります。しきりに宥める宗三の言葉も聞かず、感情的になる美奈子。将来を嘱望されている自分の地位が崩れ、現在の生活と未来への希望を失うことを恐れた宗三に殺意が芽生えるのでした。
完全犯罪と思いきや、小心者であるが故、さらに研究者であるが故に墓穴を掘ることになるのかもしれません。しかし、こんなところに伏線があったとは。さすがです。

ここでの内海はもちろん瀬戸内海のこと。一般的に内海というのは、陸地に囲まれて狭い海峡や水道によって外海とつながっている海とされます。なので、開かれたかたちで外海と接する日本海やオホーツク海は内海ではなく縁海に分類しますが、この辺りの言葉の使い方や定義は様々あるようです。世界に目を向けると、黒海はボスポラス海峡でマルマラ海からエーゲ海や地中海へとつながっていることから内海。でも、カスピ海は外海と隔絶されているので湖(世界最大)です。オーストラリアのような形をした黒海の面積は436,402㎢ で、日本の全土(約378,000㎢)がすっぽり収まってしまう大きさ。南岸はほぼトルコ、それにジョージア、ロシア、ウクライナ、ルーマニア、ブルガリアなどが取り囲み、ドナウ川の終着点でもあります。

ところで、里山という言葉は比較的によく耳にするようになったとは思います。では「里海(さとうみ)」はご存知でしょうか。環境省が定義するのは「人手が加わることにより生物生産性と生物多様性が高くなった沿岸海域[7]九州大学名誉教授だった柳哲雄による」です。20世紀には、人口増加と経済発展に伴って沿岸域は破壊され、汚染されました。今はそれを再生し、保全と維持をしながら永続的に自然と共存していこうという取り組みが広く行われています。
▼死んだ馬
1969年、「小説宝石」に掲載。本来はこのシリーズではありませんが、「松本清張全集 第9巻 黒の様式」に収められました。単行本でも「内海の輪」との組み合わせです。
日本建築専門の建築家として国内屈指といわれる池野典也は、60歳を過ぎてから再婚をしました。相手は銀座でバーを経営していた、30歳も年下の三沙子です。結婚後2年ほど経過し、三沙子は池野の心身の衰えを察して自分の将来を案じています。そこで池野亡き後には、若手の有望株である秋岡辰夫を後釜に据えて事業を続けようと計画。女にもてない秋岡を籠絡して愛人関係になりました。そして共謀し池野を強盗犯の居直り殺人に見せかけて殺害するのです。警察は捜査するも事件は迷宮入り。池野設計事務所の経営は三沙子が引き継ぎ、秋岡が才能を発揮して評価も上がり繁盛します。しかし、秋岡は三沙子から警察の目から逃れるためだと別れを告げられ、しぶしぶ受け入れるのです。立場が変わってしまった秋岡。十分に設計の実力のある彼が独立しようにも、殺人の暴露を盾にされては動けず、「池野」の看板の下でただの使用人の如く働かざるを得ません。三沙子の秘密に気付いた秋岡は、凶行へ走るのでした。
作中では、秋岡の状況が「彼は、働いても働いてもその稼ぎを三沙子にことごとく吸いあげられる『死んだ馬(デッド・ホース)』だった」と書かれています。ここでの「死んだ馬」は、隷属し搾取される状態というような意味で使われているのでしょうか。英語でdead horseというと、役に立たないとか無益な、無意味ななどのこと。通常は”beat a dead horse”や”flog a dead horse”のようなフレーズで使用されることが多いです。死んだ馬を鞭打つとか叩くということから、「結果が出ているのに無駄なことをする」とか「済んだ話を蒸し返す」みたいな意味。日本語にも「死に馬に鞭打つ」なることわざがありますが、意味が少々違いますね。

アメリカ先住民ダコタ族に古くから伝わる格言があります。”When you discover that you are riding a dead horse, the best strategy is to dismount”「自分が死んだ馬に乗っていると気付いたときの最良の方策は馬を降りることだ」そこから生まれたのが”Dead horse theory”「死んだ馬理論」。これは主にビジネスで使われます。プロジェクトを遂行する際に組織やリーダーが陥る愚かな対応を表現するもので、上手く進んでいないことや失敗したことが分かったら、馬から降りる、つまり手を引き、諦め、次のプロジェクトに取り掛かるべきということ。ついついやりがちなのが、馬を走らせるために良い餌を与えようとしたり、乗り手を替えてみたり、鞭を大きくしたり、鞍を新調したり…といった明らかに効果のない解決策で時間と労力と経費を無駄にする行為です。これを理解することで、まずは実現可能な範囲で高い目標を立てて開始し、進捗を見て首尾よく運んでいなければ、それまでのプロセスは無視してでも、早めに方向転換したり見切りをつけたりする決断が可能になるかもしれません。