松本清張の描く黒い世界。その第4弾は「黒い樹海」です。
●黒い樹海(1960年)
月刊誌「婦人倶楽部[1]1988年廃刊」に1958年から1960年にかけて連載されました。「婦人俱楽部」は、「主婦の友」、「婦人公論」、「婦人画報」、「主婦と生活」、「婦人生活」などとともに若い主婦世代向けの月刊誌として人気があり、テレビでコマーシャルが流れていたのを思い出します。内容は料理やファッション、子育て、健康、趣味の世界など多岐にわたり、清張以外にも多くの作家の連載小説が掲載されていた雑誌です。本編の主人公はそんな読者に訴求するであろう若くて行動力のある女性。


早くに両親を亡くした笠原祥子(さちこ)は、R新聞社で文化部の記者をしている姉の信子とふたり暮らしです。信子は休暇が取れたと言って、伯父の住む仙台から東北方面を巡る旅行に出かけました。ところがその翌日、祥子のもとへ姉がバス事故で亡くなったという電報が。しかもその現場は東北ではなく、静岡の浜松から弁天島へ向かう途中の踏切です。バスの後部に臨時貨物列車が衝突し、4人の乗客が亡くなったという事故。信子はその犠牲者のひとりでした。急ぎ浜松へ向かった祥子は、姉が息を引き取った病院で遺体と対面。そこでバス会社の担当から遺品のスーツケースを受けとります。そのスーツケースは無傷で、死んだ信子とは車内の別の場所に置かれていたようです。さらに、スーツケースのそのまた中のハンドバッグに入っていたはずの定期入れが、事故の翌日に拾得物として届けられました。誰か姉に同行者がいて、その作為がはたらいているのかもしれません。だとすると、「その人物」は瀕死の姉を放り出して逃げたことになります。祥子はそれが誰なのかを調べようと動き出すのです。
まず、信子の上司だった神谷の手助けでR新聞社に入社し、文化部で姉の仕事を引き継ぐことに。でも祥子にも、文化部の社員らにも姉の交際相手には心当たりがありません。入社して二ヶ月目、生前に姉が担当していた人たちのところへ挨拶廻りをすることになり、相手を観察する機会を得ます。その結果祥子は、翻訳兼評論家の妹尾郁夫、彫刻家の高木利彦、生け花家元の佐敷泊雲、画家の鶴巻莞造、Q病院小児科医長の西脇満太郎、洋裁学院の内牧理事長といった男たちの中に「その人物」がいるに違いないと確信。そんな時、姉の同僚で祥子にも親切だった先輩社員の町田知枝(ともえ)が絞殺体で見つかりました。現場は多摩水道橋[2]本書では登戸大橋の記述・現在架かるのは1995年竣工の2代目から上流方向へ500mほどの狛江側の河原。「紐」(黒い画集第5話・1959年)の遺体発見場所の近くです。知枝の殺害は姉の事故死と関連があるのではないかと感じた祥子は現場を訪れます。そこで、同じR新聞の社会部記者吉井と出会いました。彼女にとっては、快く協力を受け入れてくれた吉井が心強いパートナーとなるのです。しかし、その後も姉の事故と関わる連続殺人が発生。祥子は吉井と連携しながら、犯人かも知れない怪しい男たちに向かって大胆に接近し、姉の同行者が誰だったのかを探っていきます。ふたりはどのように真実に迫ることができるのか。途中には清張一流のレッドヘリング[3]間違った方向へ導く細工が仕掛けられています。
今読むと、さんざんお酒を呑んだあとで当たり前に車を運転したり、女性向けのカクテルとしてジンフィズ、カカオフィズ、ピンクレディなどが登場したりと時代を感じさせる部分も多々ありです。
樹海といえば、「波の塔」(1960年)の舞台にもなる富士山麓の青木ヶ原樹海が連想されるます。「黒い樹海」とは、一度足を踏み入れたら最後、抜け出すことは叶わないのではないかと思われるような、どこまでも続く黒々とした大森林のイメージです。連続殺人鬼かもしれない男となかなか解けない謎に取り囲まれた祥子が、昼なお暗い森の中で光明を求めて彷徨い歩く姿が浮かびます。
林野庁の統計(2022年)では、日本の森林率は67%。これはここ数十年間ほぼ変化のない数字だそうです。富士山麓に限らず概ね全国に森林が広がり、しかもそれを構成する植物のうち3,000種以上が固有種。素晴らしい環境と言っていいでしょう。ヨーロッパの国別森林率(2022年の統計)を見ると、フィンランドが約73%、スウェーデンが約69%となっていて、森と湖の国々のイメージ通りです。ところが、ノルウェーは約33%しかありません。それは国土の46%が森林限界よりも高いところにあるからなのです。隣り合って似たような北欧の国々だと考えがちですが、地理的条件が大きく違うことがわかります。ちなみに、スカンジナヴィアよりさらに北に位置するアイスランドの森林率はわずか0.5%ほど。もともと植物が育たないわけではありません。1000年以上前にいわゆるヴァイキングたちがやってきた頃には、国土の4割が白樺の森林に覆われていたといわれます。しかし主に暖房用として木々は悉く伐採されてしまったのです。1998年に初めてアイスランドを訪問した際に目にしたのは、ゴツゴツとした岩が延々と続く荒涼たる世界。わずかに見える緑はほとんどが地被類という光景に、まさに地の果てを実感しました。
ついでですが、信子の向かっていた弁天島は、浜名湖の南端、海への出口に位置する島です。舘山寺温泉が賑わう前のリゾート地というところでしょう。実はここには東海道本線の駅がある[4]1916年から通年営業ので、浜松駅からだと通常はバスを使わずに列車でそのまま行くことが可能です。

この小説は1960年に映画化され、その後も度々テレビドラマ作品になりました。映画版の祥子役は大映のスターだった叶順子。本作と同年に公開の「痴人の愛[5]谷崎潤一郎作」でもナオミ役を好演しました。とってもきれいで魅力的な女優であるにもかかわらず、眼の不調から惜しくも1963年に引退。続けていれば京マチ子や若尾文子、山本富士子と並ぶ看板女優になっていたでしょう。小生も古い映画でしか知りませんが、大好きな女優のひとりなんです。作品のプロットは原作に忠実につくられているうえに、もうひとひねり、ふたひねり加えているのでサスペンス映画として見ごたえがあります。ただし、原作を読んでいないと、お土産の焼き海苔の意味や、祥子が波高島(はだかじま)を訪ねるまでの過程、死体発見場所がなぜ矢野口なのかとか、アパートの管理人のおばさんの役割や轢き逃げした車のナンバープレートの秘密など、様々な小さな手掛かりが映像だけではわかりません。説明されないままに通り過ぎてしまい、気付かずに終わってしまうことでしょう。ついでですが、この映画には藤巻、根上、浜村の3人のジュンが共演していました。
おまけにちょっと紛らわしい話です。清張の原作ではない、大映の「黒シリーズ」と呼ばれる映画があります。1962年 の第1作「黒の試走車(テストカー)」は梶山季之の原作で、その後1964年までの間に全11作が製作されました。その多くは原作小説が存在するものの、映画タイトルは原作を踏襲せずに全て「黒の…」に統一されています。ちなみに第2作までのヒロイン役は叶順子で、彼女の引退後に引き継いだのが藤由紀子。藤はこのシリーズで6本に主演した田宮二郎と結婚しました。