金田一耕助「…の中の女」

横溝正史の描く名探偵金田一耕助が活躍する小説には、「…の中の女」というタイトルの短編作品が数多くあります。ほとんどが、もともと1957~1958年(昭和32~33年)にかけて週刊誌に掲載された作品です。制約された環境の中での人物描写に、短編ならではの面白さがあります。改題、改稿された作品も含めてあくまでも私的見地でご紹介しましょう。横溝自身が述べているのですが、よく同じ名字や名前の人物が登場しますし、地名、店名も同名が繰り返し使われていますね。
( )内は初出の年度で、特に収録短編集の記述のない作品は、角川書店版の「金田一耕助の冒険」に含まれています。

●夢の中の女(1956年)
初出時のタイトル「黒衣の女」から改題した作品です。
巷で百円札贋造事件が大きな問題となっていた頃、金田一は等々力警部に呼び出されます。新橋のパチンコ屋「大勝利」の看板娘、本多美禰子(みねこ)が殺され、その死体から金田一耕助が彼女に宛てた手紙が見つかったそうです。実は金田一は彼女から、三年前に起きた、姉でシャンソン歌手だった田鶴子殺害の犯人探しの依頼を受けていました。でも、手紙を出した覚えなどありません。美禰子は、いつも何かを夢想しているようなことから、「夢見る夢子さん」のアダ名が付いているのだとか。姉の死と自身の将来にも独自の幻想を抱いている節がありました。手紙は印刷物の文字を切り張りしてつくられたもの。犯人を見つけたから、指定の日時に、田鶴子が殺された後に廃墟となった代々木上原の家へ来るように、と詳細な指示が記されています。田鶴子殺しでは、パトロンの猪場(いば)や親しかった学生の来島(くるしま)が疑われるも、逮捕に至る決め手がなく迷宮入りとなっていました。その田鶴子殺害の場所で美禰子も殺されたというのです。しかも姉のイブニングドレスと真珠のネックレスを身に着けて。果たして同一犯によるものなのでしょうか。

金田一が現場に到着すると「大勝利」の経営者、花井とマダムの一枝も身元確認のために駆けつけています。葬儀も彼らが引き受けるようです。猪場曰く、「夢見る夢子さん」は姉の死に関する確かな証拠をつかんだと言っていたのだとか。金田一はその証拠が何であるかを、おのれの経験とつなげて推理を構築していき、偽札事件との関連に思い至るのでした。


●霧の中の女(1957年)
霧深い晩秋の夜、銀座4丁目の宝飾店「たから屋」で事件は発生。頭からストールを巻き色眼鏡をかけた女が、ダイヤの指輪と真珠のイヤリングを盗んで店を出ようとします。女を呼び止めた店員の牧野はその場に頽れました。腹を刃物で刺されたのです。「たから屋」の裏手にある「サロン・ドウトンヌ」では常連客で保険会社専務の長谷川善三とその秘書、宇野達彦が酒を飲んでいます。そこに店の従業員ユキが、ペンキ塗り立てのポストに抱きついてオーバーが汚れたと言いながら入ってきました。濃霧でよく見えなかったようです。すると今度は別の従業員が「たから屋」の殺人事件を報せに。店のマダムや宇野たちは野次馬根性半分で現場へ向かいました。そんな騒ぎからしばらく経過し、向島の「みよし野荘」なる『待ち合いか連れ込み宿といった種類のうちらしい』場所で、ここでも常連だった長谷川善三が刺殺体で発見されます。目撃情報からすると、犯人の風体は「たから屋」事件と同じみたいです。連れ込み宿とは今で言うラブホテルのようなもの。待合(待ち合い)とは貸席、貸座敷が本来の姿で、客の求めで仕出しの料理や芸妓を調達し、宿泊も可能な場所でした。昭和初期までは都内中心部にもあり、渋谷、新宿、池袋という大きな歓楽街に加えて、千駄ヶ谷、代々木、原宿エリアに多かったようです。

警察は犯人を捕らえるために、「サロン・ドウトンヌ」のマダムの手を借りて罠を仕掛けます。その場所として指定したのが夜の日比谷は「松本楼」の辺りです。「松本楼」は日比谷公園内の大噴水近くにあり、創業120年を超える洋食と本格フレンチの名店。フレンチの”Bois de Boulogne”には行ったことがないのですが、洋食ではオムレツライスがおすすめ。「吸血蛾」(1955年)では「M楼」と書かれています。
さて、事件の謎解きは金田一耕助の自宅で筆者へ語られるのです。


●泥の中の女(1957年)
冬の寒い夜、立花ヤス子は急用で訪れた三鷹の西条家が留守だったため、待たせてもらおうと裏の離れに行きます。そこで、風邪をこじらせた妹のために医者を呼びにいくという、レインコートにメガネとマスクの女から留守を預かることになりました。ヤス子は寝床の人が気になり部屋をのぞいてみると、そこには若い女の死体が。慌てて交番へ駆け込んだヤス子はその場で失神。介抱した巡査とともに、1時間ほどして現場へ戻ってみました。しかし離れでは、そこを仕事場として借りている探偵小説家の川崎龍二と友人の松本梧郎が酒を飲んでいて、いくら探しても死体は見当たりません。レインコートの女もいないようです。ヤス子はすっかり混乱した様子で引き揚げます。
等々力警部は巡査が書いたこの件の報告書が気になり、金田一耕助と討議を始めました。川崎は女出入りの激しい人物だそうです。ところが最近、キャバレーのダンサーの浅茅(あさじ)タマヨと川崎のファンで小学校教諭の久保田昌子というふたりの愛人が相次いで行方不明になったとか。警部と金田一が推理を繰り広げているところへ、桜上水の下高井戸橋付近で若い女の死体が発見されたという電話が。上流から流されてきて泥の中に浸かっていたようです。桜上水とは、江戸に飲料水を供給するために築かれた玉川上水の世田谷の一区間のこと。かつてその辺りの土手に桜並木があったことから名付けられました。それが京王電鉄京王線の駅名となり、1967年に上北沢から分かれた地域の町名になったのです。桜上水の町には日大櫻丘高校と日本大学文理学部のキャンパスがあり、何かと話題になったアメリカンフットボールのグラウンドも。現在の玉川上水は、下高井戸橋も含めて杉並区久我山から終点の四谷水番所までがほぼ暗渠になっています。

右:日大櫻丘高校の桜並木
死体はヤス子が離れで見た寝床の人物であり、久保田昌子でした。西条家は玉川上水の流れる三鷹の牟礼(むれ)にあるので、その辺りから投げ入れられたのかもしれません。さらにその三日後、同じ場所でタマヨの死体が浮かんでいました。連続殺人の犯人をおびき出すために金田一は一計を案じます。果たしてうまくいくのでしょうか。
ヤス子が通勤に使っているのは省線電車の西荻窪駅。当時の横溝の小説にはこの「省線電車」なる言葉が度々登場します。その昔、国有化された鉄道を管理していたのは明治時代の鉄道院からはじまり、大正時代には鉄道省、さらに再編されて運輸省でした。省の管理なので省線。省線電車とは、山手線や中央線などの近郊電車のことです。1949年に発足した日本国有鉄道に引き継がれ、分割民営化されてJRとなるまでは、国鉄の電車ということから「国電」の呼び名で親しまれていました。

●鞄(カバン)の中の女(1957年)
事件の発端は、飯田橋付近を走る大型のセダンのトランクから白い女の脚が飛び出しているという通報から。警察が調べたところ、それは彫刻家の片桐梧郎が自身の作品の石膏像を積んでいたのだとわかります。しかし、金田一耕助のところには、その件に関して心配なことがあるので会って話したいという女から電話がかかってきました。約束の時間よりも1時間半も遅れてやって来たのは電話の女の夫という駒井泰三。駒井の妻、昌子が片桐の妹なのだとか。ふたりが話しているところに昌子から電話が入ります。片桐のアトリエで何か事件のようです。駆けつけた金田一が発見したのは石膏像のモデルとなった望月エミ子の死体。さらに片桐の元妻の由紀子も自宅で殺されているのが見つかりました。片桐による連続殺人なのでしょうか。
ここで金田一の推理の決め手となるのは、件の電話の録音。初めての人物からの電話はテープレコーダーに録音することがあるそうです。それを再生してみるとある発見が。当時はテープレコーダーの一般への普及が始まったばかり。カセットテープが出回るのは1960年代後半なので、この頃はまだオープンリールでした。名探偵としてはいち早く文明の利器を取り入れていたわけです。
ところでタイトルは「鞄の中の女」であるものの、鞄の中に女はいませんし、それどころか鞄すら登場しません。英語のtrunkと言う単語があります。主に樹木の幹や動物の胴体のことですが、自動車後部の収納スペースと、大きくて頑丈な箱であったり旅行用の大型スーツケースの意味も。差し詰めこのトランク=カバンというところですかね。


●鏡の中の女(1957年)
銀座のカフェ「アリバイ」。金田一は過去のいくつかの事件で世話になったという、聾啞学校の先生で読唇術の心得がある増本女史と偶然に出会い、お茶を飲むことになりました。ふたりの席から離れた壁に大きな鏡があり、そこには熱心に話し込む重役タイプの男と若い女の姿が映っています。すると増本女史はその女の唇を読み、「ストリキニーネ」、「ピストル?だめよ、音がするから」、「やっぱり、ストリキニーネね」、「ジュラルミンの大トランク」、「三鷹駅がいいわ」と殺人計画ではないかと思われる5つの文をふるえる指で書き留めたのです。金田一たちの隣のテーブルには、同じカップルを見つめる裕福そうな中年の婦人がいます。なにか事件が起こりそうな雰囲気です。けれども金田一耕助は何故かこの状況を左程気にとめていない様子。それから二週間ほど経ち、三鷹駅で女の死体が詰められたジュラルミンの大トランクが発見されました。しかも、なんと殺されていたのはあの「アリバイ」で見た若い女で、死因はストリキニーネによる中毒死。増本女史が書き留めた内容に沿った殺人事件かもしれません。
これは、まさかそういう理由で、こんな手の込んだ方法を使ってまで人殺しをしてしまうの?という驚きの物語です。


●傘の中の女(1957年)
金田一耕助は鏡ガ浦海岸にある望海楼ホテルに1ヶ月近くも滞在中です。千葉県内房の館山に、富士山の姿を鏡のように映す穏やかな海からその名がある、鏡ケ浦と呼ばれる海岸があります。でもバカンス中の探偵がいるのは東京から汽車で5時間かかる場所なので、別のところなのでしょう。昭和30年代でも、東京から急行列車に乗って5時間あれば名古屋まで行けました。
混み合う砂浜で金田一が甲羅干しをする隣からは、睦まじい男と女の声が聞こえます。しかし、ビーチパラソルの端を砂すれすれに立てかけているので姿は確認できません。やがて若い男がパラソルから出てきて海へ泳ぎに。金田一がうとうととしていたところ、異様な叫びを聞いて目を覚まします。その途端、パラソルから防暑用ヘルメットに麻の夏服を着た男が飛び出していきました。それが気になりながらもタバコをくゆらせていると、向こうから等々力警部がやって来ます。招待してくれた金田一を探しているようです。やっと探偵の居場所を突き止めた警部は、自分に気付いたのならどうして呼んでくれなかったのかと尋ねます。それに対して「まさか、熊谷じゃあるまいし、おうい、おういと呼べもしないじゃありませんか。だいいち、あなたは敦盛って柄じゃない」と応じる金田一。これは「平家物語」に描かれている、熊谷直実(くまがえのなおざね)と平敦盛(たいらのあつもり)が対峙する場面を想起した言葉です。敗走する敦盛を呼び止めて一騎打ちを挑んだ直実は、組み敷いた相手がわが子と同じぐらいの少年だと知ったものの、ここで逃がしても仲間の追手に殺されるだけだと涙ながらに首を刎ねるというお話。「敦盛」は能の演目として有名ですね。
警部と金田一が寛いでいるところへ、泳ぎに行っていた男が戻ってきてパラソルの女に話しかけます。ところがなんと、女は絞殺されていたのです。名探偵は、すぐ目と鼻の先で殺人が行われていたかもしれないのに全然気が付きませんでした。男は野口誠也と名乗ります。殺されたのは野口の妻で、銀座裏のキャバレー「フラ」のマダムをしている和子です。もちろん怪しいのはヘルメットの男。野口が言うには、海から上がって自分のビーチパラソルに戻ったつもりでいたところ、それは少し離れた場所で別人が用意したまったく同じ柄のパラソルだったのだとか。間違えに気付いたのでここに帰ってきたといいます。調べに行ってみると、確かに同じ模様のパラソルがあり、しかもどちらのパラソルの背後にも似たような大きなマツの木が。こちらのパラソルには川崎早苗と武井清子のふたりの若い女がいました。そこへ現れたのはヘルメットの男。早苗の兄、川崎慎吾です。さっき金田一が見かけた男と同じで、ヘルメットに麻の夏服という服装。おまけに「フラ」の常連だといいます。益々持って怪しいてす。しかし、金田一耕助は偶然の一致が多すぎることに何者かの作為を感じるのでした。

右:鏡ヶ浦の夕景(館山市観光協会)

横溝は同年に、これとは別の「鏡が浦の殺人」[1]角川書店版「扉の影の女」に収録(1957年)という金田一ものの短編を書いています。ここでも金田一耕助は鏡が浦の望海楼ホテルに20日以上滞在中です。やはり東京から汽車で5時間とあるので、同じ場所なのでしょう。

●檻(おり)の中の女(1957年)
濃霧の夜。捕り物を終えた等々力警部と金田一は、ゆっくりとランチ(小型船)で隅田川の駒形橋付近を横切っています。その時どこからかリーン、リーンという震えるような鈴の音が聞こえてくるような。サーチライトで照らしてみるとボートが漂ってきます。そこには太い鉄格子の檻が載っていて、中には長襦袢姿の女が。急いで女を病院へ担ぎ込み診察を受けさせると、毒物によって意識不明になっているとのこと。翌日、金田一のもとへ等々力警部から犯罪現場が判明したという電話が。場所は今戸河岸。今戸とは浅草の言問橋の少し北で、駒形橋からは1㎞ほど上流です。台東リバーサイドスポーツセンターがあり、学生時代にときどきテニスをやりに行ったことを覚えています。今は埋め立てられた山谷堀の、隅田川へ注ぐ手前に架けられていたのが今戸橋。その親柱の跡が名残りとして残っています。

現場は檻の中にいた女、緒方静子の家。座敷には血だまりの中に横たわる大きなシェパードの死骸と静子が男と酌み交わしたビールとシュウマイが残っています。シュウマイからはストリキニーネが検出されました。一緒だった男は巨額の汚職で話題になっているある省の係長、進藤啓太郎。回復した静子は、進藤が買ってきたシュウマイを食べたら意識を失ったと言います。進藤はそのまま行方不明になっていて、その後の調べで彼しか知らない数千万円の使途不明金があることがわかりました。何者かに殺されて死体が隠されたのか、はたまた大金を着服しての偽装殺人なのか。どうも静子が以前に働いてた銀座裏の料理屋「花清」が関係しているようです。警部の捜査と金田一の推理や如何に。

●壺の中の女(1957年)
光文社、出版芸術社版「金田一耕助の帰還」に収録。長編「壺中美人」(1960年)に改稿。
金田一耕助は等々力警部とともに、自宅のテレビでたまたま「壺中美人」なる曲芸を目にしました。中国人風の男女が現れ、女のほうが大きな壺の中に入っていってすっぽり収まるというもの。それからしばらくして、画家の井川譲治がアトリエで刺殺されます。井川は陶器の壺を集めることが趣味です。死体の発見されたアトリエには大小さまざまな壺が並びます。よれよれ袴の探偵は、この家の婆やの証言とテレビで見た映像を頼りに真相を突き止めるのでした。

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●渦の中の女(1957年)
光文社、出版芸術社版「金田一耕助の帰還」に収録。長編「白と黒」(1961年)に改稿。
金田一は、かつて西銀座のバーにいた緒方順子から夫あての怪文書のことで相談されます。彼女を中傷する内容です。すると緒方夫妻が住む大規模団地で殺人事件が発生。小柄で貧相な探偵の出番となります。


●扉の中の女(1957年)
光文社、出版芸術社版「金田一耕助の帰還」に収録。中編「扉の影の女」(1961年)に改稿。
緒方順子と同じ店で働いていた夏目加代子が金田一を訪ねてきました。彼女は銀座の路地裏で飛び出してきた男とぶつかったそうです。男が落としたハットピンを拾うと血が付いていて、袋小路となった路地には女の死体が転がっていたと言います。自分が犯人と疑われたり、犯人に命を狙われたりするのではないかと相談にきたのだとか。もじゃもじゃ頭の探偵は早速調査に乗り出します。

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●洞(ほら)の中の女(1958年)
小説家の根岸昌二は世田谷区赤堤で半年ほど空き家になっていた家を買いました。もとは銀座裏のキャバレー「ドラゴン」の経営者、日疋(ひびき)隆介が住んでいた家です。日疋は女癖が悪くて有名だった様子。横溝の作品にはよく「銀座裏」のキャバレーやらバーなどが登場します。「銀座裏」というのは今ではあまり耳にしませんが、特定の地域が決まっていたわけではありません。中央通りと晴海通りが交わる4丁目交差点からは数本の道を越えた、小さなオフィスや飲食店が混在する少しばかり静かな地域のことでした。西銀座、東銀座、新橋、京橋の手前のエリアといった感じでしょうか。ちなみに「裏銀座」というと、北アルプスの高瀬ダムから烏帽子岳、野口五郎岳、双六岳、槍ヶ岳などへ向かう縦走ルートのことですね。
根岸家の庭にはケヤキの大木が枝と根を広げています。根元にはセメントで塗り固められた大きな洞が。そのセメントから1本の長い髪の毛が飛び出していることがわかり、掘り出してみると女の死体でした。被害者はかつて日疋と関係のあった田鶴子のようです。日疋の妻、珠子や田鶴子と内縁関係にある品川良太らの証言を聞いて調べていくと、狡猾で大胆な犯罪が見えてきました。


●柩(ひつぎ)の中の女(1958年)
運送店の内田が、上野の美術館に美術展で落選した古垣敏雄の作品を回収に行きました。「壺をもつ女」という等身大の石膏像です。美術展を控えて大忙しの会場で内田を手助けしてくれたのは、黒眼鏡に鐘馗様のような髭をたくわえた男。内田は、棺桶のような大きな木箱に像を詰め、トラックに積み込みました。しかし、内田のトラックは事故を起こし、木箱が滑り落ちてしまいます。破損した箱から出てきたのは、驚いたことに石膏像の中に塗りこめられた女の死体でした。調べたところ、それは最近別れた古垣の元妻で、学生時代から付き合いのある森富士郎へ譲ったという和子だとわかります。森は天才と謳われた才能あふれる芸術家なのだそうです。やがて古垣のもとには美術館から本物の「壺をもつ女」が戻って来ました。ところが森富士郎は消息不明になっています。森が和子を殺して逃げたのでしょうか。偽の「壺をもつ女」を持ち込んだのも、石膏像を運ばせた鐘馗髭の男も森なのでしょうか。金田一は、古垣のモデル、江波ミヨ子の言葉から解決の糸口を見つけるのでした。
死体を石膏で塗り固めて像にするという手口は「堕ちたる天女」(1954年)でも使われていたものですし、江戸川乱歩も明智小五郎ものの「吸血鬼」(1930年)や「地獄の道化師」(1939年)で扱っています。実際にどんな出来ばえになっているのかは想像しにくいですが…。

●赤の中の女(1958年)
1929年に週刊誌掲載の「赤い水泳着」を金田一耕助ものに改稿。
夏、金田一耕助は今度はビーチリゾートのH海岸ホテルに長逗留しています。ある日、彼がテラスの寝椅子で微睡んでいるときに聞くとはなしに耳に入ってきたのは、榊原史郎と恒子の新婚夫妻が、史郎とほんの一面識らしい寡婦の安西恭子と偶然会って挨拶しているような会話。見ると恒子は真っ赤な水着に真っ赤なケープ、これも真っ赤な大きな麦わら帽子という恰好です。気が付くと離れた場所からそれを鋭い眼光で見つめる若い男の姿が。金田一が屋上テラスへ移動すると、夫妻が今度は恒子の昔なじみ永瀬重吉と出会ったようです。探偵はひと組の新婚夫婦と旧知の男女、それに怪しい青年という状況に胸騒ぎを覚えます。この日に休暇で合流した等々力警部と一緒に夕食後、ロビーにいた金田一は赤いワンピース姿の恒子が喚きながらホテルを飛び出していくのを見ました。どうやら夫婦喧嘩のようです。途中まであとを追いかけた史郎は、戻ってきてそのままロビーで待っています。するとボーイが彼へ託ったであろう1通の手紙を渡しました。史郎はそれを何度も読み返しています。その晩恒子はホテルへ戻らず、翌朝死体となって発見。さらに永瀬が部屋で絞殺されているのも見つかりました。だれが何のために殺したのか、手紙の中身はどう関係するのか、謎の男の役割は何なのかといった疑問が。それらがひとつに纏まって解明される部分は、例によって金田一耕助が筆者に対して語る場面として描かれています。なるほどそういう意味のタイトル。しかし、賑わうビーチで仲良く海水浴をしているおじさん二人の姿を想像すると微笑ましい限りです。

●瞳の中の女(1958年)
T新聞の若き文化部記者、杉田弘は1年以上前、なんらかの事件に巻き込まれました。芝公園付近で、後頭部を強打し昏倒した状態で見つかったのです。それがもとで記憶喪失に陥った杉田は、過去のすべてを忘れてしまいます。ただひとつ瞳の中に残っているのはひとりの女性の面影だけです。それは30歳前後の美人で、鮮明なのはイヤリングを付けた顔のみ。誰なのかはわかりません。あらゆる手立てが尽くされたものの彼の記憶は戻らずに月日が流れます。ところがある晩、杉田が入院中のK精神病院が失火によって全焼。助け出された彼は、昏睡から目覚めると記憶を取り戻したみたいです。きっと杉田は事件当時の自分の足取りをたどるであろうと睨んだ金田一は、等々力警部とともに彼の後を追います。どうやら災難に遭う直前に訪問した、声楽家の沢田が住む吉祥寺へ向かう模様。杉田は沢田家は素通りして森の中にあるアトリエ風の建物に入っていきました。等々力警部は以前に発生した出来事を思い出します。アトリエに続く血の滴の跡があり、警官が調べたもののそこに住む男が自転車で怪我しただけだと言うだけで、結局事件性は見当たりませんでした。金田一と警部がアトリエに入ると杉田は見当たらず、台の上に女の首だけの石膏像が載っています。両耳には本物のイヤリングが。杉田の瞳の中にいる女なのでしょうか。ふたりが杉田の足跡を辿ると、林の中で土を掘る彼を見つけます。一体何を思い出し、何を見つけたのか。例によって、金田一は筆者に自分なりの推理を伝えるのでした。

●日時計の中の女(1962年)
角川書店版「七つの仮面」に収録。
人気作家の田代裕三と啓子の夫婦は、世田谷区成城に300坪もの敷地がある古い家を購入しました。そこはもともと近くの地主の次男坊で道楽画家の神保晴久が建てた家です。神保がしょっちゅうアトリエに女を引っ張り込むので妻は実家へ戻り、その後乗り込んできたのがキャバレーで働いていたらしい珠子。しかしやがて珠子も出ていったままき行方がわからなくなり、その後神保は交通事故で亡くなったそうです。そんな家に住むことになった田代夫妻は、大金をかけて建て増しの真っ最中。啓子のいる新居を訪ねた松並可南子は啓子の学校の先輩で、裕三の同い年のいとこです。服飾デザイナーとしても活躍中の可南子は夫婦とも懇意にしています。でも裕三と可南子には啓子に話していない秘密があるように思われ、啓子と可南子の間を流れるのはなんとなくギクシャクした空気。いま、田代邸の広い庭では鳶の人たちが大きな日時計を動かそうとしています。でもどうやら日時計の土台に詰め物がされていて重すぎるらしく、中身を取り除くのに一苦労という状況。すると中から現れたのはミイラ化した女の死体です。それは行方不明だった珠子の変わり果てた姿でした。神保の犯行で間違えないと考えられます。
数か月後、金田一耕助は自宅の緑ヶ丘荘で急に電話を寄こした田代啓子なる女性の訪問を待っていました。しかし、現れたのは最近上京して田代家に同居をはじめた啓子の妹晶子です。彼女は何度も姉の言うことを信じないようにと金田一に念を押して去ります。やって来た啓子が彼に訴えるのは、最近奇妙なことがよく起こり、自分の命が狙われているのではないか、珠子や神保の死も誰か他の人物の手によるのではないかなどというもの。ひどいノイローゼのようです。金田一はその時すぐに行動を起こせばよかったと後悔するものの、悲惨な事件が起きてしまうのでした。
余談ですが、これは昭和35年(1960年)の東京が舞台です。その夏に金田一耕助は自宅にルーム・クーラーを取り付けたそうです。当時はまだ、暖房もできる所謂エアコンではなく冷房専用機器だったのですが、一般家庭にクーラーの広い普及が始まったのが1970年代以降なのを考えると、探偵稼業も結構な暮らしができたのだと思いました。

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References

References
1 角川書店版「扉の影の女」に収録