ポアロ煥発

アガサ・クリスティの描く、名探偵エルキュール・ポアロが活躍する物語には短編も数多くあります。中にはその後の長編の布石となる、言わば習作的なお話もいくつか。日本で刊行されている短編集は独自に構成されたものもあり、原書そのままではありません。そんな短編小説集から、その内容を個人的な興味でご紹介します。(早川書房版をベースにしています)

●教会で死んだ男Sanctuary and other stories
いくつかの短編集から再構成された本です。表題作こそミス・マープルものではありますが、収録された13篇中の11篇がポアロもの。[1]残りの1篇「洋裁店の人形」”The Dressmaker’s Doll”は、ポアロもマープルも登場しないスタンドアローンの不気味なお話
どれも登場人物は限られ、複雑な人間関係などはなくサラッと読めますし、秀逸なプロットが目立ちます。しかしながら、イギリスやアメリカでは、本書のかたちでの短編集の刊行はありません。ここに掲載された作品の多くは、イギリス版”Poirot’s Early Cases”やアメリカ版”The Under Dog and Other Stories”に収録され、また、本邦でも東京創元社版の「ポワロの事件簿2」に集められています。

イギリス版の表紙と目次
アメリカ版の表紙と目次

戦勝記念舞踏会事件The Affair at the Victory Ball(1923年)
エルキュール・ポアロが登場する最初の短編。
ポアロはジャップ警部から依頼されて舞踏会の最中に起きた殺人事件の捜査に協力します。この舞踏会は、第一次世界大戦に勝利したことを記念するためのものです。そこでは仮装をして仮面を付けた上流階級の人々が大勢集まっていました。殺されたクロンショー子爵は、仲間の5人と一緒にコメディア・デッラルテCommedia dell’arteの登場人物の仮装です。このコメディア・デッラルテなるものは事件の重要な鍵でありながら、日本人にはあまり馴染みがありません。作中の説明だけだとわかりにくいので、少しだけ補足を。これは16世紀にイタリアで誕生した娯楽のひとつで、ヴェネツィアで最初にこの名前が使われるようになったそうです。ヴェネツィアでは古くからカーニヴァルの際に、性別や身分にとらわれず楽しめるように仮面を付け仮装することが行われていました。イタリア語で仮面はmascheraマスケラ。道化師を意味するアラビア語が起源なのだとか。そのためコメディアに登場するキャラクターは、仮面を付けているいないに関わらずマスケラと呼ばれます。コメディアは即興風刺喜劇としてヨーロッパに広く伝播し、現在も各地で上演されているようです。イギリスではそこから派生したHarlequinadeハーレクイネイドというパントマイムが大流行しました。

舞踏会でクロンショーが扮したのは主人公的存在のアルレッキーノArlecchino(英語名Harlequinハーレクイン)。賢く俊敏に動き、菱形が並んだ模様の細身の衣装が特徴です。その恋人役、エプロン姿の女中コロンビーナColumbinaを女優でクロンショーの婚約者ココが、赤服に黒いマントを羽織った裕福で強欲な老人パンタローネPantaloneをクロンショーの伯父ベルテイン子爵が、鷲鼻で白い服を着た太鼓腹の男プルチネッラPulcinellaをアメリカの未亡人ミセス・マラビーが扮します。そして、デイビッドソン夫妻は大きなボタン付きのふわふわの服に身を包んだピエロPierrotとピエレットPierrette[2]女性のピエロ役です。このそれぞれ典型的な衣装が殺人のトリックにも利用されています。
第一次大戦後の1920年には国際連盟が設立され、イギリスでは蔓延する薬物の濫用を規制する危険薬物法が施行されました。この作品が発表される前年の1922年は、イギリス総選挙で労働党が躍進して保守・労働の二大政党制がスタートした年です。変革と平和を望む機運とは裏腹に、名ばかりの貴族は没落し、その後の世界恐慌やファシズム、ナショナリズムの台頭へ向かっていく時代でもありました。

左:ヴェネツィアのカーニヴァルの仮面/右:マイセン磁器のコメディア・デッラルテの登場人物

▽クラブのキングThe King of Clubs(1923年)
ロンドン郊外のStreathamストリートハム(実際の発音はカタカナにするとストレタム)にあるデイジーミード荘で、オグランダー家の人々がブリッジを楽しんでいるところに、取り乱した若い女が飛び込んでくるなり「殺人よ!」と叫びます。その言葉通り、近くのモン・デジール荘で演劇の興行主ヘンリー・リードバーンが殺されているのが発見されました。若い女は有名なダンサーのヴァレリー・セントクレア。この事件を新聞記事で知ったポアロのもとへ、モーラニア王子ポールがやって来ます。モーラニアMauraniaは架空の国名です。イメージ的には中欧か東欧の小国というところかもしれません。ヘイスティングズがポール王子を見て’the famous Mauranburg mouth’「有名はモーレンブルクの口」と言っているので、由緒あるモーラニア王家のモーレンブルク家の家系には特徴的な口のかたちがあるのでしょう。ポール王子はヴェレリーを妻にしたいと考えていて、彼女の身を案じてポアロに彼女の元へ行ってほしいと頼みます。ポアロとヘイスティングズがデイジーミード荘へ行くと、事件の起きた当時の状態のままです。部屋の中央に据えられたブリッジ・テーブル上には手札が広げられています。ポアロがそこで見つけたものとは?真相を見出した彼は粋な計らいをするのでした。
ストレタムはロンドン中心部から南に6マイルほどの場所。あとで紹介するクラパムの近くです。地名の由来はhamlet on the streetで「街道の村落」の意味。ローマ時代に、ロンディニウム(シティ・オブ・ロンドンの原型)からブライトンの港へ向かう街道沿いにあったことによります。

▽マーケット・ベイジングの怪事件The Market Basing Mystery(1923年)
ポアロとヘイスティングズとジャップ警部は、週末を過ごすために小さな田舎町マーケット・ベイジングを訪れます。マーケット・ベイジングというのは、アガサの小説には度々登場するイングランド南部の架空の町です。
ジャップが「自分が退職したら犯罪とは無縁のこんな田舎に住みたい」と言うと、ポアロは‘Le crime, il est partout’「犯罪なんてどこにだってありますよ」と答えます。ここでヘイスティングズが引用するのはこんな詩でした。
‘That rabbit has a pleasant face,
His private life is a disgrace
I really could not tell to you
The awful things that rabbits do.’
「あのウサギは愛想のいい顔立ちだけど
 彼の私生活は恥ずべきもの
 全くもって伝えることができない
 あのウサギの恐ろしい行いについては」(拙訳)
はてさてこれは何かを暗示しているのやら。
彼らが朝食を食べながら寛いでいるところへやって来たのがポラード巡査。近くの邸宅で男が頭を撃って自殺したようです。でもジャイルズ医師の所見では自殺ではないように思われるのだとか。急いで事件現場へと向かう一行。ポアロはしきりに鼻をクンクンさせ、ヘイスティングズは遺体の袖口に挟まれたハンカチが気になります。「厩舎街(ミューズ)の殺人」に繋がるような内容です。


▽二重の手がかりThe Double Clue(1923年)
ポアロは古美術品の収集家ハードマンに自宅の金庫から盗まれた高価で貴重な宝石類を取り戻したいと相談を受けます。それは少人数でのささやかなティーパーティの後に起きたようです。疑わしいのは、南アフリカの億万長者ジョンストン、帝政ロシア時代の貴族ヴェラ・ロラコフ伯爵夫人、社交界のランコーン卿夫人、プレイボーイのバーナード・パーカーの4人。早速ポアロが金庫の中を見てみると、蝶番に男物の手袋が挟まっており、また金庫の底にはシガレットケースが落ちています。調べたところシガレットケースの表面にはBPのイニシャルがあり、手袋はパーカーのもののようです。つまりはふたつの手がかりから、バーナード・パーカーの犯行だと考えて間違いないということでしょうか。逆にポアロはこらはおかしいと思い、真犯人を特定します。

この作品がCountess Vera Rossakoffヴェラ・ロサコフ伯爵夫人の初登場です。ポアロはまた彼女とどこかで会うであろうと予感します。実際に、「ビッグ4」”The Big Four”(1927年)、「ヘラクレスの冒険」”The Labours of Hercules”(1947年)に登場することになりました。
彼女の名前Rossakoffの綴りが気になるのでちょっと考察。ロシア人の苗字をラテン文字に置き換えてもffで終わるというのはまずありません。サッカー界のスーパースターのヨハン・クライフJohan Cruyffはオランダ人、「ナイトライダー」や「ベイウォッチ」の俳優デヴィッド・ハッセルホフDavid Hasselhoffはドイツ系です。伯爵夫人は、ソビエト連邦成立前後のロシアから逃れてきたのだと思われます。その際に本来はラテン文字にするとRossakovとなる名前の綴りをドイツ語風にvをffに変更したのでしょう。ところが、ロシアに限らずスラブ系の苗字は性別によって変化することが一般的。男性の場合はロサコフで、女性はロサコヴァになります。たとえばイワノフИвановがイワノヴァИвановаに、ポポフПоповがポポヴァПоповаになるように。恐らくはВера Русаковаのようなロシア語表記[3]参考ロシア語サイトとなり、カタカナにしたらヴェラ・ルスコーヴァが正しいのかもしれません。ついでですが、男性がブーニンБунинのようにNの音で終わる時は女性はブーニナБунинаに、ドフトエフスキーДостоевскийのような場合はドフトエフスカヤДостоевскаяになります。また、ラテン文字アルファベットの’f’はロシア語アルファベット(キリル文字)では’ф’(発音はエフ)です。

▽呪われた相続人The Lemesurier Inheritance(1923年)
ポアロとヘイスティングズは、リムジュリア家に中世から伝わる呪いの伝説を聞かされます。それは、相続権のある長男が誰一人として無事に家督を相続したことがないというもの。みんな不慮の死を遂げているのだとか。その話を聞いた数年後、リムジュリア家の資産を引き継いでいるヒューゴー・リムジュリアの夫人がポアロのもとを訪ねてきます。夫妻には8歳と6歳の男の子がいるものの、長男のロナルドが三度も死にかけているそうです。一度は、子供部屋の外壁のツタ(アイビー、ヘデラ)を伝って昇り降りしているとツタの茎が切れて落下しました。夫人が調べてみると茎が刃物で切断されていたのです。つまり誰かがロナルドを殺害しようとしていたということ。夫人がポアロに言う言葉が「伝説に、蔦の茎を切るような芸当ができるわけはないはずですもの[4]2003年初版・宇野輝雄訳」。これは原書では‘Can a legend saw through an ivy stem?’「伝説が、ツタの茎をのこぎりで切ることができますか?」です。ご承知のようにアイビーは匍匐性の植物で、茎の途中からどんどんと気根を伸ばして土以外の場所にも吸着しながら伸び広がります。長い年月をかけて絡み合うように育った茎は、根元近くではのこぎりが必要なほどの太さだったのでしょう。しかし、’saw through’は「見抜いた」という別の意味でも使われたのかもしれません。ポアロが罠を仕掛けて犯人は捕まり、事件は一件落着となりますが、最後に意味深な一言が。なるほど。

▽コーンウォールの毒殺事件The Cornish Mystery(1923年)
ポアロのところへやって来たペンジェリー夫人。自分が毒殺されかかっていると訴えます。夫で歯科医師のペンジェリー氏を疑っているのです。ポアロは、翌日にヘイスティングズとペンジェリー家のあるコーンウォールのポルガーウィズへ行くと約束しました。コーンウォールというのはイングランドの南西に突き出した半島部分です。本書によるとロンドンからポルガーウィズまでは列車で5時間ほどかかります。二人がペンジェリー家に着くと、驚いたことにペンジェリー夫人は30分前に亡くなったと知らされるのです。ポアロは当然のことながら毒殺を疑うものの、夫人の主治医アダムズは胃炎で片付けてしまいます。ペンジェリー家のメイドとペンジェリー氏の姪フリーダ、その恋人のジェイコブなどから話を聞いたポアロは、ヘイスティングズに3ヶ月待ってみるみたいなことを言い出します。果たして3ヶ月後、夫人の遺体が墓から掘り出されることになったのです。そこからは大量のヒ素が検出され、数々の証言や証拠からペンジェリー氏が公判にかけられることになりました。さて、ここからポアロが一気に解決へ導きます。
ポアロとヘイスティングズがペンジェリー家に行ったとき、庭にはストックとモクセイソウの甘い香りが。モクセイソウReseda odorataというのは耳慣れない植物名かと思います。日本には自生しない比較的に大型の草で、モクセイ(キンモクセイやギンモクセイ)のような香りがすることからこの和名がつけられました。英語ではmignonetteミニョネット。もともとはフランス語のmignon「かわいい」という単語の指小辞です。フランスでミニョネットと言えば生牡蠣に合わせるソースのSauce mignonetteミニョネットソースでしょう。みじん切りにしたエシャロットを赤ワインビネガーに浸して、黒コショウを混ぜます。生牡蠣にはレモンが一番かもしれませんが、たまにはこれもいけますよ。
さて、原題のCornish。「コーンウォールの」という意味です。でも、Cornishコーニッシュと聞いたら、まずCornish Pastyコーニッシュ・パスティを思い浮かべます。肉と野菜をパイ生地で包み半月型にして焼いた所謂ミートパイのようなもの。コーンウォールの郷土料理であると同時に、イギリス、特にイングランドではとってもポピュラーなスナックといっていいでしょう。小生の愚妻も、ロンドン在住時代に朝食代わりによく食べたと言っていました。原産地呼称の保護対象となっているので、その名を名乗るにはコーニッシュ・パスティ協会なる組織が定めた条件を守る必要があるのだとか。家でつくる時は原産地呼称は関係ないので、合い挽き肉と賽の目に切ったジャガイモとタマネギを具にすることが多いです。本来はスウィード(ルタバガ、スウェーデンカブ)という野菜を入れるのですが、日本では入手困難。入れなくても構いませんし、代用する場合はカブやダイコンよりもゴボウやニンジンの方がいいかもしれません。

左:モクセイソウ / 右:コーンウォールの観光地セント・マイケルズ・マウント

▽料理人の失踪The Adventure of the Clapham Cook(1923年)
テレビドラマ「名探偵ポワロ」シリーズの第1作[5]「コックを捜せ」のタイトルで、1990年の日本初放送時には第2話になったお話です。Claphamクラパムとはロンドン南郊の名称。かつてはシティの実業家たちが好んで立派な邸宅を構える場所でした。20世紀になって鉄道が延伸されたことにより、ロンドン中心部へ通勤する庶民のための住宅地へと変貌。クラパムといえば「普通の人」を意味するようになります。アガサがこのお話を書いたのはまさにそんな変化が起こっていた時期だったので、タイトルにも加えたのでしょう。イギリスの法律にはMan on the Clapham omnibusと呼ばれる判断基準があります。オムニバスとは乗合馬車のことで、バスの語源です。クラパムの乗合馬車(バス)の乗客、つまりは一般人を意味する言葉。民法で過失を裁定する際に、ごく普通の人が合理的に行動した場合にどうするのかを考える重要な概念といえます。要するにこのタイトルが、単なる料理人ではなくクラパムの料理人となっているところが重要で、そこがアガサの意図するポイントです。
料理人が突然失踪したと訴えてきた依頼人のトッド夫人が住むのは、そんなクラパムのa street of small prim houses「こじんまりした家が立ち並ぶ通り」です。当時は大きなお屋敷ではない、こういう普通の家でも住み込みの料理人を雇っていたのだと驚きます。ポアロは調査を開始しますが、途中でトッド夫人は彼が役立たずだと失望し、家庭の問題に探偵を雇うのは馬鹿げていると云って、相談料1ギニーの小切手を送りつけてきます。逆に奮起したポアロが調査を続けると、果たしてただの使用人の失踪だと思っていたはずが、実は銀行員の巨額持ち逃げや殺人事件とこんなところで繋がっていたという展開に。すべてを解決したポアロは、些末なことも軽視してはいけないという自身への戒めのために、小切手を額に入れて壁に架けるのでした。ちなみにギニーは1971年に公式通貨でなくなるまでポンドと併用された通貨単位です。実際には1816年に製造が中止された金貨で、硬貨用の金の多くがギニアで産出されたためこの名があります。1ポンドが20ペンスであるのに対して、1ギニーは21ペンスとされていました。1ペンス分はチップなのだとか。インフレ計算機https://www.in2013dollars.com/UK-inflationによると、1923年の1ギニーは現在のおよそ13,000円と思われます。

左:20世紀初頭のロンドンの小型乗合バス / 右:5ギニー金貨

▽二重の罪Double Sin(1928年)
ヘイスティングズ大尉は最近働き過ぎで疲れ気味のポアロを、休養のために風光明媚な南デボン[6]イングランド南西部のコーンウォール半島にあるのリゾート地エバーマスへ連れ出します。ところが、滞在中に知人から呼び出されたポアロは北デボンのチャーロック・ベイへ向かうことに。困ったことに、デボンの南北の移動は交通が不便なため、不本意ながらチャーロック・ベイへの日帰り観光バスに乗る破目になりました。そこで知り合ったのは、骨董商の叔母の使いで高価な細密画を運んでいるという若い女性、メアリー・デュラントです。それに生やしかけの口髭がポアロの同情を誘った痩せぎすの青年、ノートン・ケインも途中下車をすると告げてバスに同乗しています。やがて細密画盗難事件が発生。メアリーのスーツケースの中に入っていたアタッシュケースがこじ開けられて盗まれたのです。ポアロが細密画の買い手の収集家に電話で確認するも、すでに500ポンドという大金で取引は済んだ後でした。持ち込んだのは骨董商の代理人を名乗る長身の中年女。ヘイスティングズはそれをノートンの変装だと怪しむのですが…。
いよいよ最後の見せ場、ポアロによる謎解きの場面になり、タイトルのdoubleが二重に罪を重ねるというのとはちょっと違って、二倍と替え玉という「二重」の含意を持っていることがわかるのです。
冒頭のほうでヘイスティングズがポアロを評し、’My little friend was a strange mixture of Flemish thrift and artistic fervour.’「私の小さな友人は、フランドル的な倹約と芸術的な熱心さが奇妙に入り混じっている」と語っています。ポアロは言語問題が根深いベルギーの中でもフランス語共同体のスパ[7]Spa、ドイツとの国境に近いリエージュ州にある近郊の出身です。フランス語を母国語として話すポアロとしては、フランドル(フランデレン、フラマン)的とは絶対に言われたくないでしょうね。



●死人の鏡Murder in the Mews(1937年)
現在発行されている早川書房の文庫版は日本語では「死人の鏡」になってはいても、英語は”Murder in the Mews”なのです。最初にイギリスで出版された際に、”Murder in the Mews and Other Stories”というタイトルで、アメリカでの初出版が”Dead Man’s Mirror”だったからかもしれません。ページ数からすると短編というより4作の中編集[8]アメリカ版は「謎の盗難事件」が含まれず3篇です。

▽厩舎街(ミューズ)の殺人Murder in the Mews
これがテレビドラマ「名探偵ポワロ」の日本放送第1作目となった作品です。ミューズというのはロンドン市内にもたくさんある通りの名前。表通りに面して家の玄関があり、裏側に馬と馬車を置くための馬小屋が設けられています。その2階部分に馬の世話をする使用人たちが住んでいました。つまり裏通りの路地的な場所で、通常は石畳敷きです。20世紀になって、そういったかつての馬小屋だったところが改装されて住居として利用されるようになり、現在でもケンジントンやノッティングヒルなどの人気エリアにおしゃれなスポットして残っています。このお話の舞台となったのも、そんなミューズの元馬小屋の住宅です。要は1階部分が馬や馬車が入れるように大きな空間が取られていて、2階に寝室があるというようなイメージ。アガサ自身も、考古学者マックス・マローワンと再婚後、チェルシーのミューズ街Cresswell Placeクレスウェル・プレイスに住んでいたことがあります。

左:アガサが住んでいた家を示すブループラーク / 右:ミューズ 

事件は11月5日のガイ・フォークス・デーに発生しました。この日は火薬陰謀事件の日とされ、1605年に宗教政策に不満を抱えるカトリックの過激派が、国王ジェームズ1世と英国議会もろとも爆破しようと企てたものの、直前に計画が露見します。その時に火薬の見張りをしていたフォークスが逮捕され、事件が未然に防がれたことに因み、花火と焚火でお祝いするのが通例です。これについて早川書房版の作中に訳註として括弧書きで「…首謀者ガイ・フォークスを火刑にした記念日」とあるのですが、実際の首謀者はロバート・ケイツビー[9]潜んでいたところを包囲され射殺という男、それにフォークスは絞首刑だったので少々間違っています。ちなみに「邪悪の家」”Peril at End House”の中で、殺人の行われた花火の晩にもポアロがガイ・フォークス・デーに言及していますね。

その夜、バーズリー・ガーデンズ・ミューズ14番地の家で亡くなっていたのは、そこに住むバーバラ・アレン夫人。同居するミス・プレンダーリースの通報で駆け付けた警官によって、ピストルで頭を撃ち抜かれた死体が発見されました。自殺のように見えて実は殺人かもしれません。書き物机、紙くず籠、腕時計、灰皿といった現場の状況を丹念に調べ上げたポアロによって何が起きたのかが明らかにされるのです。
事件を解決してジャップ主任警部からランチに誘われたポアロは、’With pleasure, my friend, but we will not have the cake. Indeed, an Omelette aux Champignons, Blanquette de Veau, Petits pois à la Francaise, and—to follow—a Baba au Rhum.’「喜んで。でもケーキは勘弁だね。マッシュルーム・オムレツに仔牛のブランケット、フランス風グリーンピース、その次にババ・オ・ラム」と答えています。
ブランケットはクリーム煮にする調理法で、フランス語の白blancheと白くするblanchirが語源。生クリームとベシャメルで白く仕上げます。仔牛以外にも豚や鶏、七面鳥といった薄い色の肉を使い、牛肉のような濃い色の肉ではつくりません。フリカッセと似ていますが、肉を焼かずに低温から煮ていくのが特徴。フランス風のグリーンピースというのは、ソテーしたベーコンやタマネギにグリーンピースとレタスを加えて煮る料理です。ババ・オ・ラム(フランス語だとハムに聞こえます)は、ブリオッシュ生地を焼いてラム酒のシロップをしみ込ませたお菓子。上に生クリームやフルーツを載せます。ちなみにババとサヴァランは同じお菓子と考えて差し支えないでしょう。また、似た名前のババロアはドイツのバイエルン地方ゆかりといわれ、Vabaroisと綴るのでババとの関連はありません。

▽謎の盗難事件The Incredible Theft
このお話は、「教会で死んだ男」収録の短編「潜水艦の設計図」”The Submarine Plans”(1923年)を膨らませた中編です。事件はメイフィールド卿(ロード)の邸宅で開かれた晩餐会の夜に発生しました。参加者は、英国空軍司令官のジョージ・キャリントン卿(サー)とその妻ジュリアに息子のレジー、三度の離婚歴がある美貌のアメリカ人ヴァンダリン夫人、下院議員で住宅と児童福祉の権威マキャッタ夫人、それにメイフィールド卿の秘書カーライル。メイフィールド卿は工学関連の会社を経営し、自らも一流のエンジニアとして財を成した人です。チャールズ・マックローリンが本当の名前で、1年前に爵位を授かってメイフィールド卿になりました。現在は軍需大臣を務めており、次期首相とも噂されています。メイフィールドのロードもジョージのサーも日本語ではいずれも「卿」なのですが、ロードは爵位のある貴族の称号でサーは貴族ではないナイトや準男爵[10]最後に準男爵となったのはマーガレット・サッチャーの夫デニスで1990年のこと・1992年にはマーガレット本人が男爵位を授かるの称号です。
さて、夕食後にしばらく寛ぎ、夫人たちとレジーが自室に引き上げます。メイフィールド卿はカーライルに金庫からファイルや書類に図面や印刷物をすべて出すように言いつけて、ジョージ卿とともにテラスの散策に出て行きました。途中でメイフィールド卿が書斎から出てきた人影を見たと声をあげますが、逆にジョージ卿は何も見ていないと言います。ふたりが書斎に戻り、カーライルがデスク上に用意した書類を確認すると、なんと一番大事な新型爆撃機の設計図が見当たりません。書類を出したときに女の悲鳴を聞いたカーライルは、数分の間その場を離れていました。その間に誰かが設計図を盗み出したのでしょうか。ジョージ卿に呼び出されたポアロの捜査が始まります。原題は”The Incredibe Theft”です。theftは「盗み」。incredibleは「驚くべき」や「とてつもない」という意味があり、ここでは「信じられないような」という感じで考えていいと思います。美しい景色やおいしい料理や素敵な服装といったものを称賛するときは’It’s incredible!’は便利です。言い換えとしては’Fabulous!’も使えます。

▽死人の鏡Dead Man’s Mirror
ポアロはジャーヴァス・シェヴニックス=ゴアなる人物から届いた手紙を読みます。そこには、電報を受け取ったらすぐに自分の家へ来てほしい旨の内容が。その人物に心当たりがないポアロは、社交界に通じたサタースウェイト氏から情報をもらいます。サタースウェイトはハーリ・クィンもののストーリーテラーですね。彼はポアロに会うと「烏の巣事件」を持ち出します。これは「三幕の殺人」”Three Act Tragedy”(1935年)の事件のこと。サタースウェイト曰く、シェヴニックス=ゴアは’The Bold Bad Baronet ― the mad harum-scarum baronet so popular in the novels of the last century―the kind of fellow who laid impossible wagers and won ‘em’.’「大胆で悪徳な準男爵…前世紀の小説にありがちなめちゃくちゃで向こう見ずな準男爵…とてもあり得ないような賭けに出て勝つような種類の輩」で、おまけにとてつもない大金持ちだそうです。harum-scarumハーラム・スカーラムとは、無謀な、無茶苦茶な、自由奔放なといった意味。かつてエルヴィス・プレスリー主演でこのタイトルの映画[11]邦題「ハレム万才」1965年日本公開がありました。ハリウッドスターが、中東で国王暗殺計画に巻き込まれて大騒動みたいな話です。
そして電報を受け取ったポアロは、要望通りにジャーヴァス卿の邸宅ハムバラ荘へ向かいました。屋敷に到着して広間へ通されると、そこには家の主はいません。集まっていたのは、オカルトに傾倒するシェヴニックス=ゴア夫人のヴァンダ、養女のルース、ジャーヴァス卿の甥で近衛兵のヒューゴー・トレント、ヒューゴーの女友達スーザン・カードウェル、ジャーヴァス卿の友人ベリー大佐、顧問弁護士フォーブス、秘書のゴドフリー・バローズ、シェヴニックス=ゴア家の年代記を手伝うミス・リンガードです。執事がやってきて夕食を報せる銅鑼を叩こうとすると主人がまだいないのに気づきます。ジャーヴァス卿は時間にとてもうるさく、毎日決まった時刻に全員が揃って食事を始めるのだそうです。不審に思ったポアロの指示で鍵のかかった書斎のドアを叩き壊して入ってみると、椅子に腰かけピストルで頭を撃ちぬいた状態のジャーヴァス卿が。壁の丸い大きな鏡は、弾丸が当たったようで粉々に壊れています。一見自殺のように見えるものの、ポアロは他殺を疑うのです。
ヴァンダは呪いのせいだとして、アルフレッド・テニソン男爵の詩を引用します。
Out flew the web and floated wide;
The mirror crack’d from side to side;
‘The curse is come upon me,’ cried
The Lady of Shalott.
織っていた布がはためいて広がる
鏡がビシッと左右から割れる
「呪われたー」と叫ぶシャロットの乙女(拙訳)
この詩はミス・マープルものの「鏡は横にひび割れて」”The Mirror Crack’d from Side to Side”(1962年)では重要な構成要素です。
ポアロは、冷静にひとりひとりから聞き取りをしていき、殺人の犯人を探り当てていきます。トリックや動機の種明かしが楽しみです。
本書ではルースが花壇で摘んだ花を「ヒナギク」と訳していますが、原書ではMichaelmas daisies と書いてあります。これはニューヨーク・アスターSymphyotrichum novi-belgii(和名ユウゼンギク)のこと。紫の花弁のとても美しい花なんです。大天使ミカエルの日としてお祝いをする9月29日ごろに咲くので、Michaelmas daisyの名があります。花の種小名novi-belgiiは新ベルギーです。これは17世紀に建設されたNieuw Nederlandニウ・ネーデルラント植民地[12]現在のニューヨーク、ニュージャージー、デラウェアあたりのラテン語化した別名が由来になっています。

右:Michaelmas daisyユウゼンギク

▽砂にかかれた三角形Triangle at Rhodes
休暇をゆっくり過ごすため、閑散期の10月末にギリシャのロードス島を訪ねたポアロ。リゾートホテルの砂浜では、彼の横でふたりの若い娘パメラとサラがうわさ話に余念がありません。そこに現れたのが、シャネルのモデルもやったことがある美貌で有名なヴァレンタイン・チャントリーです。遅れて彼女の5番目の夫トニー・チャントリー中佐が。さらに、ダグラスとマージョリーのゴールド夫妻もやって来ます。どうやらダグラスは妻はほったらかしでヴァレンタインにご執心の様子です。当然トニーはおもしろくありません。ポアロが人差し指で砂に描いた三角形を見たサラは’The eternal triangle’と言います。これはそのままの「永遠の三角形」でもいいものの、この言葉は「(恋愛の)三角関係」という意味合いで普通に使われるものです。ただし、後にパメラが言うのは「永遠」の意味。うまく訳すのが難しいですね。

みんなが集まった夜のラウンジで、好物のピンク・ジンを飲んだヴァレンタインがその場で倒れて亡くなります。毒殺。それはトニーが飲むはずだったピンク・ジンでした。自明の理としてダグラスが疑われます。でもポアロは階前万里のごとくすべてを理解していて、パメラに真実を解説していくのです。
今はピンク・ジンを好んで飲む人は少ないように思います。19世紀の後半ぐらいからイギリスで飲まれるようになり、第一次世界大戦終結後、1940年代にかけて特にロンドンで流行したドリンクです。材料はプリマス・ジンとアンゴスチュラ・アロマティック・ビターズだけ。プリマス・ジンはイギリスのプリマスで15世紀から蒸留されているジンです。一般的なロンドン・ドライ・ジンと比較すると少々甘めの味わいといわれます。ビターズはハーブやスパイスを使った44.7度と強いお酒。たくさん飲むのではなく、ほかのお酒に数滴混ぜて風味を付けます。
ピンク・ジンのつくり方の一例はこんな感じ。カクテルグラスやワイングラスにビターズを何滴か垂らして、グラスを動かしながら内側に広げます。そこへプリマス・ジンを注ぎ軽くかき混ぜれば出来上がり。ステアやシェイクでもいいですし、氷を入れてもOK。ビターズが赤銅色のため薄く色づきます。でもピンクという感じではないかも。現在はイチゴやラズベリーの味や色を加えた正にピンク色の「ピンク・ジン」という商品もたくさん出回っています。甘いお酒が好きな方にはいいのでは?

左:ロードスのシンボルのダマ鹿 / 中:荒野のエリヤ(レイトン画) / 右:プリマス・ジン

第3章でポアロは「予言者の山」に登ったとあります。これは預言者(予言ではない)エリヤの山[13]標高798mと呼ばれる場所です。エリヤはユダヤ教とキリスト教で重要な預言者。そのお話は旧約聖書の「列王記上」に描かれています。また、新約聖書の「マタイによる福音書」と「マルコによる福音書」には、十字架にかけられたイエスが絶命する場面がほぼ同じ内容[14]マタイ伝第27章45-50節・マルコ伝第15章33‐37節で記されていて、そこにエリヤの名が。マタイ伝記載の内容はこちらです。’ Now from the sixth hour there was darkness over all the land. And about the ninth hour Jesus cried out with a loud voice, saying, “Eli, Eli, lema sabachthani?” that is, “My God, my God, why have you forsaken me?” And some of the bystanders, hearing it, said, “This man is calling Elijah.”  And one of them at once ran and took a sponge, filled it with sour wine, and put it on a reed and gave it to him to drink. But the others said, “Wait, let us see whether Elijah will come to save him.” And Jesus cried out again with a loud voice and yielded up his spirit.「さあ、第6時(午後0時)になると暗闇が全土を覆った。そして第9時(午後3時)ごろ、イエスは大声で叫んで、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ?』と言われた。それは『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになられたのですか?』という意味だ。近くにいた一部のひとが、それを聞いて言った。『この男はエリヤを呼んでいる』。するとひとりがすぐに走って海綿を取り、酸っぱいワインに浸して葦の先に付け、イエスに飲ませようとした。しかし、他の人々が言った。『待て、エリヤが彼を救いに現れるかどうかを見てみよう』。そしてイエスはもう一度大声で叫ぶと魂を明け渡した」(拙訳)
これは人々がイエスのことばを聞き間違ったわけです。しかし、エリヤが来るか見てみるというのは、イエスを蔑んでいた人も、昼間に暗闇が訪れたことで異変を感じたのでしょう。旧約聖書の最後に置かれている「マラキ書」に、「主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす」[15]日本聖書協会1955年改訳とあることを思い出したのかも知れません。

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References

References
1 残りの1篇「洋裁店の人形」”The Dressmaker’s Doll”は、ポアロもマープルも登場しないスタンドアローンの不気味なお話
2 女性のピエロ
3 参考ロシア語サイト
4 2003年初版・宇野輝雄訳
5 「コックを捜せ」のタイトルで、1990年の日本初放送時には第2話
6 イングランド南西部のコーンウォール半島にある
7 Spa、ドイツとの国境に近いリエージュ州にある
8 アメリカ版は「謎の盗難事件」が含まれず3篇
9 潜んでいたところを包囲され射殺
10 最後に準男爵となったのはマーガレット・サッチャーの夫デニスで1990年のこと・1992年にはマーガレット本人が男爵位を授かる
11 邦題「ハレム万才」1965年日本公開
12 現在のニューヨーク、ニュージャージー、デラウェアあたり
13 標高798m
14 マタイ伝第27章45-50節・マルコ伝第15章33‐37節
15 日本聖書協会1955年改訳