小学校3年生の時に、近所に住んでいたいくつか年上の幼馴染が引っ越すことになり、本を何冊かくれました。そのうちのひとつが南洋一郎(みなみよういちろう)の冒険小説「緑の無人島」[1]講談社・1938年初版でした。暴風で難破した客船から、ボートで流れ着いた南洋の孤島でサバイバルに挑む夫婦と4人の子供たちのお話です。少年の心を鷲掴みにするようなワクワクする文章の連続で、すぐに読み切ってしまい、何度も読み返したことを覚えています。その半年後ぐらいに、同級生から誕生日のプレゼントとしてもらった本が、ポプラ社から刊行されていた「怪盗ルパン全集」[2]1958年から刊行 中断があって最終的に全30巻のうちのひとつ「ピラミッドの秘密」[3]1961年初版です。怪盗アルセーヌ・ルパンArsène Lupinの活躍を描くこの全集は、モーリス・ルブランMaurice Leblanc原作で南洋一郎が訳ということになってはいます。でも実質は、ほぼ南が日本の子供向けの内容に置き換えた、ジュブナイル小説としての位置づけでしょう。特にこの「ピラミッドの秘密」は原作そのものが存在せず、南がルブランのスタイルを模倣して創作した作品だそうです。読み始めるとどんどんと引き込まれて、本に描かれた華やかな人々が行き交うパリの光景や砂漠に古代エジプトのピラミッドが立ち並ぶ世界へと浸っていきました。母から聞かされていた、ツタンカーメン(トゥト・アンク・アモン)の黄金のマスクが日本で公開されたときの話や発掘の際のファラオの呪いの話、それに母がつくるフランス料理にまつわる話が物語の魅力をさらに膨らませたのかも知れません。でも、今思えばこの本との出会いが、のちにフランス語を勉強したり、大学の史学科で西洋史を専攻して卒論には古代エジプトを書いたり、バックパックを担いで実際にフランスやエジプトへ行ってみたり、それに関わる仕事に就くということにつながったのは間違えないでしょう。振り返ると会社員時代には、同じオフィスで働いた外国人にフランス人もエジプト人もいて親しくしていましたが、それ以上にこの両国は、他の国とは少し違ったかたちで訪問する機会が多く、観光旅行はもとより普通の業務出張では出会うことのないような、上質な体験を積み重ねた気がします。同級生が数ある全集の中からなぜこの本を選んだのかはまったくの謎です。彼も、自分のプレゼントが友人のその後の人生に大きな影響を与えたことは知る由もないでしょうね。
この本は昭和40年代に1冊380円でした。現在は消費者物価指数がその当時の3倍ほどになっているので、いまの金額にしたら1,150円といったところ。小学生のお小遣いではなかなか簡単に手が出ない代物です。「怪盗ルパン全集」の別の本を読みたくて学校の図書室へ探しに行きました。そうしたら3冊発見。なぜか、同じポプラ社の「名探偵ホームズ全集」と「江戸川乱歩全集」はもっとたくさんあるのにルパンは少ない。早速全部借りて一気読みです。ますます南洋一郎のフィールドにのめりこみ、勝手に作ったアルセーヌ・ルパンのイメージが膨らむこと至極。その後は、読書好きだった母と一緒に本屋さんへ行ったときに買ってもらったりしながら順番に読み進めていきました。テレビで「ルパン三世」の放映が始まったのは、当時発売されていた全集の15巻までをすべて読み終わったあと。長い間新刊が出ていなかったのですが、「ルパン三世」開始に前後するように再び刊行が始まりました。アニメは南の世界とはまったくの別物ではあっても、特にシリーズの前半の方はコメディ要素が薄くフランス映画の如くアンニュイな雰囲気が漂っているところが大好きで、毎週楽しく見ていたと思います。ガニマール警部の登場に感涙しました。
北フランスのノルマンディー地方、ルーアンRouenの北西約70㎞のところに、エトルタÉtretatという白い断崖で有名な町があります。白亜紀の石灰岩でできた崖は浸食によって独特の景観を生み出していて、クロード・モネ、ギュスターブ・クールベ、ウジェーヌ・ブーダンといった画家が好んで描いた場所です。
ルブランが生まれ育ったのはルーアンで、「怪盗紳士」”Arsène Lupin, Gentleman Cambrioleur”、「813」、「カリオストロ伯爵夫人」”La Comtesse de Cagliostro”、「バール・イ・ヴァ荘」”La Barre-y-va”といった作品にはノルマンディーが舞台として登場します。彼は、エトルタに夏の別荘を構え、毎年執筆のために訪れていました。その家は現在は博物館になっています。エトルタが登場するルパンの小説が「奇巌城」[4]原作は1909年刊行です。フランス語の原題は”L’Aiguille creuse”、英語では”The Hollow Needle”いずれも「空洞の針」という意味。エトルタには、海から直立したような高さ55mの尖った岩があり、それが針と名付けられています。ルパンともうひとりの探偵役で高校生のイジドールが、いくつもの謎を追いつつ、暗号を解読していき真相に迫るという話です。この岩が物語の山場の重要な構成要素になります。
このお話の中でルパンと対決するイギリス人探偵エルロック・ショルメHerlock Sholmèsとは、シャーロック・ホームズを捩った名前です。1905年にアルセーヌ・ルパンを世に送り出して人気を得ていたルブランは、翌年、”Sherlock Holmès arrive trop tard”(遅すぎたシャーロック・ホームズ)という短編を発表。ところが、アーサー・コナン・ドイルからの抗議を受けたため探偵を改名しました。そして「奇巌城」の前に書かれた、”Arsène Lupin contre Herlock Sholmès “(アルセーヌ・ルパン対エルロック・ショルメ)[5]日本語版タイトルは「ルパン対ホームズ」で堂々の再登場。知恵比べを披露しています。ちなみにWatsonワトソンの変更された名前はWilsonウィルソンです。
この怪盗ルパン全集は、ポプラ社より2009年からポプラ文庫クラシックとして、小さいサイズながら復刻されました。しかし、誠に残念なことに「ピラミッドの秘密」は含まれていません。