レバノンスギ

レバノンは地中海に面して、シリアとイスラエルに国境を接する南北に長い国。その中央に背骨のようにそびえるのが3,000m級の山々が連なるレバノン山脈です。さらに東のシリアとの国境には、レバノン山脈と並行してアンティ・レバノン山脈があります。ふたつの山脈の間にひろがるのがベカー高原。標高が1,000mほどあるので高原で間違えではないのですが、英語ではBekaa Valleyつまり峡谷です。なぜかというと、ここは大地溝帯のアジア側、ヨルダン渓谷の始まりの部分だから。大地溝帯というのは、ベカーから南に下ってガリラヤ湖、死海、アカバ湾へ抜け、紅海の先でアフリカ側のジブチに上陸し、エチオピア、ケニアなどを通ってモザンビークへ至る大地の裂け目です。地殻変動が続いている地域ですから、レバノンのふたつの山脈はほんの少しずつ離れていっているということ。いずれずっと遠い未来には切り離されることになるのでしょう。

レバノンの国旗をご存知ですか?上と下が赤で中央が白、その中に緑の木が描かれています。これがレバノンスギLebanese cedar(学名Cedrus libaniです。国の象徴として、軍や学校、スポーツの代表チームはもちろん、MEAレバノン航空を筆頭に企業や商品のロゴマークとしてあらゆるところで目にします。ところが、本物のレバノンスギはというと特定の場所へ赴かなければお目にかかれません。それはレバノン山脈北部にあります。カディーシャ渓谷(聖なる谷)と神のスギの森(ホルシュ・アルツ・エル-ラーブ)Ouadi Qadisha (the Holy Valley) and the Forest of the Cedars of God (Horsh Arz el-Rab)としてユネスコの世界文化遺産に登録されている地域です。もともとはレバノン山脈だけでなく国のほぼ全体をレバノンスギの森が覆っていました。しかし、木材としての利用価値が高かったことから、古代より伐採が進みます。いまのレバノンの辺りはかつてフェニキアと呼ばれました、フェニキア人は海の民ともいわれ、造船技術、航海技術を活かして地中海地域での交易で栄えたことが有名です。彼らは、船や家や神殿の建材のためにレバノンスギを使い、また、エジプト、バビロニア、ギリシャ、ペルシャをはじめとした近隣諸国に対して木材を輸出しました。聖書には、ソロモンがエルサレムの宮殿造営に大量のレバノンスギを使用したことが記されています。[1]列王記第5章から第7章ローマ時代に入ってからもレバノンスギは珍重され、個体数が減ってきたことから、ハドリアヌス帝[2]五賢帝のひとり・在位117-138はレバノンスギの森の周囲に帝国の所有地である旨の碑文を配置して管理をおこないました。それでもその後も乱伐は続き、ほぼ絶滅状態になってしまったのです。現在は、わずかに残った個体を自然保護区の中で厳重に管理し、大規模な植林プロジェクトをおこなうことで徐々に回復しつつあるとききました。
レバノンスギには樹齢が1,000年を超える木もあり、大きなものは樹高は40m、幹周は8m以上になるそうです。けれども、成長は極めて遅く、長い年月をかけて巨木へと育っていきます。レバノンの森がもとの景観に戻るのにはいったいどれほどの時間が必要なのか想像がつきません。

上記の世界遺産の日本名もそうですが、cedarを何の迷いもなくスギと訳すのはどうもいただけません。レバノンスギはあくまでレバノンスギであり、ヒマラヤスギHimalayan cedar(学名Cedrus deodara)と同様に和名にスギが付くだけで、決してスギではないからです。東京は中央区の銀座と各地にある○○銀座が別物であることと同じだと思ってください。スギはヒノキ科(かつてはスギ科)でレバノンスギはマツ科に分類されます。その葉と実を比べれば一目瞭然。仲間でないことはすぐにわかるはず。日本の固有種であるスギは英語ではJapanse cedar(学名Cryptomeria japonica)です。さらに、ベイスギWestern redcedar(学名Thuja plicata Donn ex D.Don)やニオイヒバNorthern white cedar(学名Thuja occidentalis)など英語名でcedarが付く植物はたくさん存在します。つまり、cedarとはマツ科、ヒノキ科を含む多くの針葉樹の総称ということです。ただ単にcedarとだけある場合は、それがどの種を意味するのか調べるべきかもしれません。学名以外の植物名は誰がいつ名付けたか不明なものがほとんどではないでしょうか。それでも与えられた名称は適格に使うことが合理的だと思います。

左:スギ / 右:レバノンスギ

ちなみにCedarはシダーとかシーダーと表記されることが多いものの、英語の発音はeにアクセントがあり、arはのばさないので、カタカナで書くとしたら「シーダ」が正しいです。

References

References
1 列王記第5章から第7章
2 五賢帝のひとり・在位117-138