松本清張 味読

数ある松本清張のミステリーの中でも個人的に気に入った作品をご紹介します。( )内は単行本の刊行年。

●アムステルダム運河殺人事件(1970年)
清張自身が作中で触れている通り、このお話は1965年に実際に発生し、迷宮入りとなった事件を下敷きに書かれています。「殺人事件」がタイトルに付いているのは清張作品としては珍しいですね。
オランダの首都アムステルダムは水の都。12世紀に、アムステル川の河口付近で暮らしていた漁師たちによって堤防(ダム)が築かれたことが町のはじまりです。現在のアムステルダムの中心地では、美しい中央駅を北端として王宮や町の象徴的広場ダム、デパートや商店が集まった繁華街を幾重にも取り囲むようなU字型の運河があり、さらにそこから放射状に延びる運河が流れます。そのうちのひとつヤコブ・ファン・レネップ運河に浮かんでいた、大きなジュラルミン製のトランク。中から発見されたのは首と両脚、両手首のない男の死体でした。やがてその被害者は、隣国ベルギーのブリュッセルに赴任して間もない、坂崎次郎という貿易会社の駐在員だとわかります。ベルギーとオランダの警察の捜査によって、坂崎と親しくしていたやはり独身の駐在員、雨宮重太(あまみやしげた)が容疑者として浮かびました。しかし、彼はオランダ方面へ向かう道路のトンネル内で自動車事故を起こし、命を落としてしまいます。真相がつかめぬまま迷宮入りとなった事件。その数年後、経済記者の「私」は、犯人と疑われていた雨宮とごく親しかった人物からの依頼で、医師の久間鵜吉とともに現地での調査へと赴くことになったのです。ふたりはいくつもの疑問を解消するために、目撃者、関係者に聞き取りをしながら丹念に調べていきます。ひたむきに取り組む姿は本物の刑事や私立探偵の如くの健闘と言えるでしょう。なぜ坂崎は殺されたのか、殺人が行われたのはどこなのか、なぜ手首を切断したのか、雨宮の事故死との関連はあるのかといった謎が少しずつ解明されていくのです。

左:アムステルダムの運河 / 右:アムステルダム中央駅

彼らが何度か立ち寄るのがブリュッセル郊外のSchaerbeekスカールベーク(オランダ語:Schaarbeekスハールベーク)という町。ブリュッセルで働く人たちのベッドタウンのひとつであり、東欧やトルコ、モロッコなどからの移民が多いことでも知られています。
よく知られている通りベルギーはビール大国です。一人当たりの生産量ではチェコやアイルランド、オランダと並んで世界有数で、しかもその種類の多さには圧倒されます。中でもベルギー独特なのが、ブリュッセル首都圏とその西隣のパヨッテンラント地域で昔からつくられているLambiekランビーク(フランス語:Lambicランビック)です。麦芽を原料に、ワインのように自然発酵させて2種類をブレンドするのが特徴。そのうちのひとつKriekクリークは、酸味が強く苦みもあるモレロ種のサクランボPrunus cerasus(スミノミザクラ)を加えて二次発酵させます。スカールベークはこのサクランボの産地で、クリークの製造に使うために収穫したサクランボをロバに載せてブリュッセルの市場まで運んだことから、ロバの町ezelstadエーセルシュタット(あるいはde ezelsgemeenteドゥ・エーセルスゲメーンテ[1]gemeenteは自治体の意味)(フランス語:la cité des ânesラ・スィテ・デ・アーニ)と呼ばれているそうです。


●象の白い脚(1974年)
全編がラオスLaosの首都ビエンチャンVientianeを舞台としたお話です。ラオスというと東南アジアにあるのはなんとなく分かっても、正確な位置関係にしろ産業や文化、日本との関係などもあまり知られていないのではないでしょうか。東はベトナム、西はタイ、南はカンボジア、北に中国とミャンマーといった国々に囲まれた内陸国です。面積は約24万㎢で、ヨーロッパで言うとイギリスとほぼ同じぐらいになります。IMF[2]国際通貨基金の統計データでは、2021年の名目GDPは約185億USD。これは隣国ベトナムのおよそ20分の1しかありません。
物語は、谷口爾郎(じろう)がビエンチャンへ向かっている飛行機の機内から始まります。当地で横死した、知人で作家志望の石田伸一の死の真相を調べるためです。時は1969年。ベトナム戦争の真っ最中であり、ラオスにおいても三派による内戦が繰り広げられていました。ラオスを含むフランス領インドシナ連邦は、1945年3月9日[3]東京大空襲の前日に日本軍によって解放され、ラオスにもラオス王国が誕生。ところが、半年もたたずに日本が敗戦したため、その後のインドシナ戦争の時代へ突入していたのです。結果的に1975年にパテト・ラオPathet Lao[4]ラオス愛国戦線主導によるラオス人民共和国が成立し現在に至っています。そんな当時のラオスの不安定な状況は、清張自身の綿密な取材によって本書の中で詳細に綴られているものの、ある程度は背景的なことを事前に知識として仕入れておくと、より楽しく読むことができるかもしれません。
この小説は、小説誌に連載されていたときには「象と蟻」というタイトルでした。それが単行本化された際に改題されたのです。ラオス王国の国旗には3頭の白象が描かれており、それを想起させるタイトルですが、同時に巨大な象であるアメリカの足元で蠢く、蟻としての登場人物たちも意味していると解釈しました。

左:ラオス王国の国旗 / 右:現在のラオス人民共和国の国旗

谷口が調査を開始すると、機内でも隣席にいて同じホテルに逗留中だったオーストラリア人が何者かに殺害されます。その男が読んでいたのが、題字にナーガが絡みついたタイ語の新聞。しかし現地の人たちは誰もそんな新聞は知らないと言います。
作中に何度も表現されているように、ビエンチャンは首都でありながら小さく侘しい町です。人間関係は限られています。書店の支配人であり、通訳として谷口に同行しながら様々な情報を提供する山本実。彼の雇い主で当地では名士として顔がきく、レストランと書店のオーナー平尾正子。吞んだくれでうらぶれたフランス人記者のシモーヌ。妻子を日本に残して長く海外赴任を続けている東邦建設技術主任の杉原謙一郎。こういった人々と関りながら、谷口は石田の足取りを追ってキャバレーや怪しいバー、さらには売春宿から阿片窟にまで足を踏み入れて調べを進めていきます。石田やオーストラリア人はなぜ殺されたのか。ナーガの新聞には何の意味があるのか。ビエンチャンと隣国タイの国境を流れるメコン河の水流にどんな秘密があるのか。何やら大きな陰謀が隠されているようです。谷口が辿り着く先には何が待ち受けているのでしょうか。

左:ナーガ / 右:ビエンチャンの凱旋門

本編でも紹介されているラオスの国花がプルメリアです。現地ではDok Champaドク・チャンパと呼ばれます。ドクというのは花の意味です。プルメリアはキョウチクトウ科で熱帯地域に広く分布します。蝋細工のような厚く光沢のある5枚の花弁をつけ、甘い香りがするのが特徴です。ハワイやタヒチといった太平洋の島々でよくレイに使われます。ちなみにプルメリアはハワイ語ではPua Maliaプア・メリア。カタカナだと似ていますが、プルメリアはPlumeriaと書き、17世紀フランスの植物学者シャルル・プルミエCharles Plumierにちなんで名付けられたものです。


●死の発送(1984年)
この小説を読んだのは単行本になってからですが、もともと週刊誌、小説誌に掲載されたのは1961年から62年にかけてでした。
主人公の底井武八は、夕刊紙のみを発行する三流のR新聞社記者でまだ30歳手前の青年です。N省の役人だった岡瀬正平が5億円もの大金を着服し、その罪で7年間の服役を経て戻ってきます。横領したお金の大半はバーやクラブで豪遊したり、競馬につぎ込んだり、半端な事業を起こしたりして費やしたことが分かるものの、1億円ほどの使途が不明なのだとか。その金がどこかに隠されていて、出所後にそれを持ち出すであろうと睨んだR新聞編集長の山崎は、底井に岡瀬の張り込みと尾行を命じます。叔父の雑貨屋を手伝う岡瀬が出掛ける度に、その後をつけては山崎に報告する底井。彼は編集長がこの件に余りに執着していることが気になります。ある日、底井が目を離した隙に岡瀬は旅に出てしまいました。行先は、逮捕される前に亡くなった母の墓がある福島は飯坂温泉近くの村です。仕方なくその帰りを待っていた底井は、他社の新聞で岡瀬殺害の記事を目にします。これを隠し金絡みと見た山崎の命で底井はさらなる調査へ赴くことに。すると今度は山崎が失踪。底井は岡瀬事件と関係があるに違いないと確信してひとり調べを続けます。尾行中に岡瀬が訪れた府中の東京競馬場や神楽坂などで少ないヒントを頼りに謎を紐解こうとするのです。やがて山崎がトランク詰めの遺体となって発見されます。しかも場所はまたも福島。そのトランクは、国鉄[5]日本国有鉄道・現JR(東日本)田端駅で託送手荷物として預けられ、郡山駅で引き取られたものでした。ちょうど時期は福島競馬の開催中。馬主、調教師、厩務員といった関係者の行動を探っていた底井は、列車の利用にトリックがあることに気付きます。時刻表と首っ引きで推理した末に判明したのは…。
面白いのは競馬の馬券(勝馬投票券)についての描写。その後主流になる8枠連勝複式馬券(1、2着の馬の枠番を着順に関係なく当てる)が導入されたのは1963年です。岡瀬が馬券を買う場面を読むと、この作品が書かれた頃にはまだ枠番連勝単式(1、2着の馬の枠番を入線順に当てる)が存在していたことがわかります。
今では物流の中心はトラック。当時は主に車両に持ち込めない大型の手荷物などを別送する旧国鉄のチッキと呼ぶ託送手荷物が一般的でしたし、競走馬も地方へ遠征する際には鉄道で輸送されていました。この作品は少し前にテレビドラマになったようです。でも設定は現代になっていて、宅配便や馬運車[6]競走馬などを輸送する大型自動車に置き換えられていたらしく、折角のトリックの見せ場はなしということだったのでしょう。

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References

References
1 gemeenteは自治体の意味
2 国際通貨基金
3 東京大空襲の前日
4 ラオス愛国戦線
5 日本国有鉄道・現JR(東日本)
6 競走馬などを輸送する大型自動車