清張 黒の6 「回廊」 / SEICHO BLACK THE SIXTH, “CLOISTER”

●黒の回廊(1975年)
このお話は1971年4月から1974年5月まで毎月刊行だった、「松本清張全集(文藝春秋刊・全38巻)」に挟み込まれる月報の形で連載された作品で、その後改稿のうえ単行本となりました。最初の刊行時は、全集購入者向け特典としての非売品。全集に似た装丁でケース入りでした。

左:全集に付いていた月報 / 右:全集と同じ体裁のケース

回廊とは、キリスト教の修道院などでよく見られる、四角い中庭を囲むようにつくられた廊下です。僧のための小さな部屋が並び、アーケド状の屋根があり、庭側には列柱が並んでいるというのが基本的なかたち。世俗世界と分離し、静かな修道生活を営むための場所です。日本の寺院や神社でも見かけますが、西洋の場合と違って聖域と呼べるような重要な建造物を取り囲むようにつくられています。

物語は、王冠観光旅行社の主催旅行[1]現行法では募集型企画旅行である「ローズ・ツア」ヨーロッパの旅25日間の募集から催行中にかけて展開されます。王冠観光は「大阪、福岡、札幌に支店をもって本社の従業員百数十名」という中堅どころという位置づけの旅行会社。ちなみに、いまでもよく「旅行代理店」という言葉を耳にしますが、正しくは旅行会社あるいは旅行業者です。旅行業法では、旅行業と旅行業者代理業は明確に区別されています。代理業者はいずれかの旅行業者に所属していて、その旅行業者の業務しか代理することができません。

日本で観光などを目的とした自由な海外旅行ができるようになったのは1964年のこと。この作品の連載が始まったころの小生はまだ小学生でしたが、叔父がホノルルで会社を経営していた関係で、岐阜に住む祖母が毎年2度ほどハワイへ出かけるのです。その行き帰りに東京の拙宅に宿泊することも多く、その都度、見送りや出迎えの際に羽田空港へ行っていました。それに田園調布から空港行きの京急の路線バスが自宅近くを通っていたことから、そのバスで羽田へ行っては飛行機を見る機会もあり、いずれ自分もあれに乗って外国へ行きたいものだと思ったものです。

(一社)日本旅行業協会の資料によれば、連載開始した1971年の年間の日本人出国者数は961,135人。業務での出張者もたくさんいたでしょうが、まだ個人旅行が普通ではない時代にあって、観光目的で海外に行く人の多くは、主催旅行、いわゆるパッケージツアーの参加者たちでした。いまでは海外旅行で25日間というのはなかなか見かけません。ヨーロッパであってもせいぜい10日前後。しかも1,2か国周遊のコースが主流なのではないでしょうか。しかしかつては、たびたび海外を旅することはあまり考えられず、主要な観光地を網羅したツアーに一度参加すればOKという具合でした。「ローズ・ツア」も東京を出発して、コペンハーゲンからロンドン~エジンバラ~チューリッヒ~ベルン~クライネシャイディック~ジュネーブ~パリ~ローマ~アテネ~テヘラン~香港と回って東京へ戻るというコースです。

ツアーの特色として、参加者は女性に限っていることと、最近人気の旅行評論家である江木奈岐子(えぎなぎこ)が講師として同行することです。締め切り間際まで集客があり、総勢30名の団体となりました。添乗員に決まったのはベテラン社員の門田良平です。ところが、ツアー出発が確定して参加者名簿を受け取った江木から、急な事情によって同行ができなくなった旨の連絡が。慌てて江木のもとへ駆けつけた門田でしたが、彼女の意志は固く、代理の講師を推薦してもらうことで引き下がりました。講師となったのは27歳の土方悦子(ひじかたえつこ)。英文学を学び、ヨーロッパ旅行の経験もあります。門田は、体よく彼女をアシスタントとして使おうと目論むのです。

一行は無事に羽田空港を出発。スカンジナビア航空機でアラスカのアンカレッジを経由してコペンハーゲンへ向かいます。今でこそ日本とヨーロッパの主要都市との間のフライトはノンストップが当たり前。でも、もともとは、日本を出発したら香港、東南アジア、インド、中東の各国の空港を何度も経由しながら長時間かけてたどり着く、いわゆる「南回り」ルートでした。それを変えたのは、1957年のスカンジナビア航空による、北極経由「北回り」ルートの開設です。経由地はアンカレッジのみ。ヨーロッパ路線やニューヨーク便などを運航する各航空会社がアンカレッジを経由地とするようになり、アンカレッジ空港には日本人向けの大きな免税売店ができて、賑わいを見せるのです。旅行者は往路に商品を購入して復路で受け取るというスタイル。汁がとっても濃くておいしいとは言い難いうどんも何故か名物でした。これによって「南回り」は少なくなりましたが、小生も1980年代に何度か経験しています。長距離便の主力機種ボーイング747使用でも、ローマやパリまでは概ね24時間以上かかっていました。経由地の空港では給油や補給のために1時間程度の待ち時間があり、空港ビル内のトランジットエリアで体を伸ばしてくつろいだり、お店をのぞいたりできます。中には機内で待機しなければならない空港もあり、それはちょっと苦痛でしたが。下の画像は1982年冬の、当時は国営だったアリタリア航空[2]2009年に民営化したが、2021年に運航を停止し、経営は国営のITAエアウェイズに引き継がれたのタイムテーブルです。Flight NumberのJLは日本航空、AZがアリタリア運航。アリタリアは週3便の南回りで東京(成田)からローマへ飛ばしていて、小生はAZ789に乗り、アテネで途中降機しました。現在は主に中東の航空会社を利用して南回りでヨーロッパへ行かれる人も多いでしょうが、所要時間は大幅に短縮されていますね。

Aircraftの74Mはボーイング747-200Mのこと、コンビと呼ばれる貨客混載タイプ / モスクワ経由便は所要時間が断然短い

物語は門田の目線で展開していきます。早速、アンカレッジ空港で指輪紛失事件が発生。一旦は収まりますが、いくつもの火種を残したままコペンハーゲンに到着します。コペンで宿泊するのはSAS Royal Hotelロイヤル・ホテル[3]2026年現在ではRadisson collection Royal Hotelの名称。1960年に開業したアメリカンスタイルの5つ星高層ホテルです。チボリ公園と中央駅が目の前にあり、スカンジナヴィア最大のショッピングストリートとして有名なストロイエまで徒歩で10分ほどの立地。でも到着時間が早すぎてチェックインができません。夜に東京を飛び立つ、北回り便でヨーロッパへ行けばほぼそういうことになるので、旅行会社としては、アーリーチェックインが難しいとしても、バスを数時間用意して観光へ案内するぐらいのことはやるべきところです。長時間のフライトで疲れているところへ、初めて訪れる街なのにいきなり自由行動はちょっといただけませんね。

左:スカンジナビア航空のDC-8 / 右:コペンハーゲンSASロイヤルホテル(1961年)

コペンハーゲン2泊目の夜、門田はひとりで飲み屋へ行きます。そこで知り合ったのはフリーのルポライター鈴木道夫。女性ばかりのツアーであることや、江木奈岐子の知り合いであることなどを話しました。翌日、空港へ向けて出発しようとしていると、今度はホテルの部屋で暴漢による団員の襲撃事件が。幸いたいした怪我もなく、なんとか門田が事態を収拾して大事には至りません。不穏な空気を抱えながらも一行はロンドンへ。ところが、日本のスポーツ新聞に、コペンハーゲンでの一件が殺人未遂事件として報道されていることがわかりました。鈴木の仕業です。これに興味を持った各新聞社の特派員たちも動き出します。次にグループが向かったエジンバラでは、ホテルのオーバーブッキングにより、北へ車で1時間ほどの場所にあるLoch Levenレブン湖の畔の 宿に宿泊することになりました。トラブル続きではあるものの、レブン湖は、スコットランドの国立自然保護区に指定された、清涼な空気と美しい景観、多様な動植物で知られる場所。参加者たちもその滞在を楽しんでいたのですが、とうとう連続殺人事件が起きてしまうです。物語の後半は、殺人事件の警察捜査に門田と土方の推理、そしてスイスのグリンデルワルトでの関係者を集めた裁判のごとき訊問へと進んでいきます。やがて明らかになる真相。「ゼロの焦点」を思い出しますね。

もちろん松本清張のことですから、十分な調査を行ったうえで本編を執筆しています。実際に1964年4月12日から5月3日まで三週間のヨーロッパへの取材旅行を実施。そのときの模様は旅行記「はじめてのヨーロッパ」[4]雑誌「旅」1964年7月号から9月号に掲載・「作家の手帖」(1981年/文藝春秋)に所収としてを克明に記されています。この作品には、特に詳しい現地事情などで旅行の成果が豊富に活かされているといっていいでしょう。加えて旅行会社や添乗員の業務に対しても取材を行ったと思われます。ただし、残念ながら業界の実情を知るには足りなかったのではないでしょうか。添乗員の門田は各地の市内観光の案内をしたり、警察の取り調べや訊問での通訳をしたりと忙しいです。でもこれらは添乗員の仕事ではありません。市内観光は、その町あるいは国のライセンスを所持したガイドが案内しますし、通訳は難易度に応じた専門通訳を雇います。何故かと言えば、説明や訳語を間違えてはいけないからです。その代わりに、添乗員にとってはやるべき仕事があります。現在では事情が大きく変わっている部分があるものの、たとえば空港でのチェックイン。団体の予約は事前の座席指定ができないのが当たり前です。たいていの場合、航空機の後部に人数分の座席をまとめてフレームで予約されています。場合によっては、旅行会社が提出したネームリストに従って適当に座席が割り当てられていることも。添乗員は空港のチェックインカウンターで座席表と全員の搭乗券を受け取り、同行者の有無や本人からもらっている希望に配慮しながら、不公平が生じないように席割をしなければなりません。とりわけ長距離便や人数の多い団体では気を使います。ホテルでの部屋割りも同様。ホテル側に用意された部屋がバスタブ付きか、2人部屋にベッドが2台あるか、眺望に差がないかを確認し、いくつかのフロアに分かれていれば、誰を上の階にするのか、エレベーターの近くにするのかなどを考慮します。お客様をホテルロビーで待たせた状態なので、短時間で調整しなければなりません。何も考えず、機械的に搭乗券や部屋の鍵を配ることも可能でしょう。その代償としてクレーム対応は覚悟する必要があります。

ついでに、長年海外旅行に携わってきた人間から見て気になったポイントが、ランドオペレーター(現地地上手配会社[5]旅行業法上は手配代行者の位置づけ)の不在です。それは、個人旅行しか経験していないとよく知ることができない部分。このお話が書かれた昭和40年代から現在に至るまで、海外、特にヨーロッパ内に地上手配機能を備えた自社の支店を持っている日本の旅行会社は数社しかありません。それ以外のすべての旅行会社がヨーロッパへのツアーを催行するためには、現地支店を持つ旅行会社か、ヨーロッパ内にネットワークを展開する専門のランドオペレーターに、必要なサービスの手配をまるごと依頼しています。ホテルの予約だけであれば直接手配が可能でしょうが、実際の旅行手配は細かいサービスの積み重ねです。団体ツアーの場合、日本から航空機でパリに到着する場面を例にとると、まず空港での出迎え日本語アシスタントが必要です。この人がいないと始まりません。ポーターに指示して、グループ全員分のスーツケースをピックアップさせ送迎バスまで運ばせます。到着ロビーを出てからの、移動距離が短いところでバスを待機させるために、予めの運転手との打ち合わせも大事です。当時であれば、お客様へフランスフランへの両替の案内が必要。添乗員に手配確認書類などを手渡し、バスの中ではパリの基本情報や注意事項を要領よくお客様に説明して、ホテルに着いたら、ポーターに荷物を下ろさせ、チェックインの手伝いなど。これらはすべて予め予約手配をすべきサービスで、それぞれにコストが発生します。アシスタント代、空港のポーター代、送迎バス代、ホテルのポーター代、さらにアシスタントの交通費、バスの駐車場代、到着時間やホテルの場所による追加バス料金といった支払いを、すべてその場で添乗員がするとなったら大変。必要となるその国の通貨を毎度両替して、相当額を携えていなければなりません。そのためにそれらの予約手配と支払いを代行してくれるランドオペレーターがあり、添乗員はその会社が発行するバウチャー[6]手配済み証明書、引き換えに各サービスが提供されるで支払い行為を済ますことができるようになっているのです。さらにランドオペレーターは現地緊急連絡先の役目も請け負っていて、ツアー中に何かイレギュラーが発生した際には、必要な手助けをしてくれます。旅行にトラブルはつきもの。大きな事故はまれでも、交通機関の遅延、お客様の病気や盗難といったことは起こりえます。そんな時には現地事情に精通したランドオペレーターの存在はとても心強いものです。通常は、旅行会社が海外ツアーを企画する際には、ランドオペレーターの日本事務所から包括した地上手配経費の見積もりをもらい、旅行代金を計算しています。いちいち現地の各都市にあるホテルやバス会社、ガイド派遣会社、レストランなどに料金や空き状況を問い合わせるということはありません。門田が「現地で当社と特約している旅行社」や「ジュネーブ旅行代理店」と言っている場面があるので、おそらくその存在はあるはずなのでしょう。これだけ揉め事満載で旅程変更も多々起きているツアーです。門田は、ベテランとはいえヨーロッパはまだ5回目。まずはランドオペレーターに電話して、警察や大使館など各方面との連絡や、日程変更に伴う予約手配の変更手続きをお任せし、自分はお客様のケアに徹するのが本来のあり方だと思います。

References

References
↑1 現行法では募集型企画旅行
↑2 2009年に民営化したが、2021年に運航を停止し、経営は国営のITAエアウェイズに引き継がれた
↑3 2026年現在ではRadisson collection Royal Hotelの名称
↑4 雑誌「旅」1964年7月号から9月号に掲載・「作家の手帖」(1981年/文藝春秋)に所収
↑5 旅行業法上は手配代行者の位置づけ
↑6 手配済み証明書、引き換えに各サービスが提供される