大統領の密使と晩餐 / Emissaries and Supper of the President

小林信彦の描く「オヨヨ大統領」シリーズ。1970年刊行の「オヨヨ島の冒険」、「怪人オヨヨ大統領」というジュブナイル小説に続けて発表された「大人向け」の作品は、「大統領の密使」からはじまり、「大統領の晩餐」、「合言葉はオヨヨ」、「秘密指令オヨヨ」、「オヨヨ大統領の悪夢」までの全5作[1]これと別にジュブナイル版の「オヨヨ城の秘密」があるです。ここでは刊行順に2作をご紹介しましょう。( )内は初刊行の年。

「大統領の密使」(1971年)
小学生の大沢ルミから打って変わって、主人公はラジオ局に勤める、深夜放送「オールナイト・ジャパン」の売れっ子DJ今似見手郎。「オールナイト・ニッポン」で人気だった今仁哲夫のモジリなのは分かりやすいです。物語は、この事件で知り合うことになる中原弓彦[2]小林信彦のペンネームでもあるの勧めで、オヨヨ大統領と関わった事件の全容を今似が記録するという構成。タイトルどおりに、スパイものの小説や映画へのオマージュたっぷりのお話です。発端は今似が定宿にしているバーモンド・ホテルで、「記念品の蒐集」と称して部屋備え付けの聖書を持ち帰ったこと。ところがその聖書には重大な秘密が隠されていたのです。これをきっかけとして、一匹狼の殺し屋きのうのジョー、謎の中国人張念天、怪ロシア人イワン・フレイミンク、それにMI6(イギリス情報局)の諜報員トレヴァー・スマイリー[3]ジョン・ル・カレの描くジョージ・スマイリーがモデルと思われると部下のマクラレンといった、なんとも胡散臭い奴らに付け狙われることになる今似。見え隠れするのはオヨヨ大統領の存在です。国際的な陰謀に巻き込まれたサラリーマン今似の、追いつ追われつの冒険が展開していきます。

窮地の今似を助ける仲間は、友人の放送作家で、アフリカでの猛獣狩りを夢見る、南洋一郎[4]冒険小説で有名な作家ならぬ南洋一。ジャパンテレビの腕利きプロデューサーにして空手の達人、細井忠邦。こちらは当時、「コント55号の裏番組をぶっとばせ!」などの所謂低俗と呼ばれながら人気を誇った番組を、数々世に送り出した細野邦彦がモデルです。

そして忘れてならないのが、ジェームズ・ボンドとキッシー鈴木の間に生まれたという鈴木ボンド少年。キッシー鈴木は、イアン・フレミングが日本を舞台にして書いた”You Only Live Twice”「007は二度死ぬ」(1964年発行)[5]井上一夫訳の日本語版ハヤカワ・ポケット・ミステリでは「007号は二度死ぬ」に登場する海女で、ボンドの協力者として活躍した女性です。キッシーは、宿敵プロフェルドを倒したものの記憶喪失になってしまったボンドとともに暮らして、子供を授かります。その子が鈴木ボンドという設定。いいところで活躍するんです。ちなみに、レイモンド・ベンソン[6]フレミングの公式後継作家の007シリーズ”Blast from the past”[7]和訳すると「過去からの爆風」という感じ(1997年)では、ボンドとキッシーの間に生まれた子供の名前はジェームズ・スズキとされています。普通に考えればこちらですよね。

この原題”You Only Live Twice”は、日本を気に入って新作の舞台とすることを決めたフレミングが、執筆のために日本旅行をした際、松尾芭蕉の俳句に刺激されて詠んだ句をもとにしているのだそうです。以下のようにエピグラフ[8]巻頭の引用文に記されています。
You only live twice:
Once when you are born
And once when you look death in the face
人が生きる(ことを知る)のはたった二度だけ
生まれたとき
そして死に直面したとき
(拙訳)

本編の第11章でボンドと行動を共にするタイガー・タナカ[9]映画では丹波哲郎が演じたが、ボンドに日本文化を説明しようと芭蕉の俳句を持ち出し、その際にボンドが真似してしたためた句としても登場。フレミングはよほど気に入ったのでしょう。フレミングを触発した芭蕉の句は、「野ざらし紀行」に収められている「命二つの中に生きたる桜哉[10]滋賀県甲賀市水口町の大岡寺にある句碑には「いのち婦たつ中に活たるさくらかな」とある」だそうです。この句は生きるとか死ぬとかではなく、偶然、旧友と20年ぶりに再会した際の感動を詠んでいます。

左:ハヤカワ・ポケット・ミステリ / 中:浜美枝 / 右:スペクターの秘密基地とされた阿蘇山

ところで、映画版「007は二度死ぬ」(1967年日本公開)は全編が日本を舞台にしていて、浜美枝と若林映子がボンドガール(現ボンド・ウーマン)として出演しています。このふたりは、「キングコング対ゴジラ」(1962年公開・東宝)で同じ団地に住み同じカメラ屋で働く同僚役だったことで、ボンドガールの声がかかったのだとか。浜が演じるキッシー鈴木はボンドと偽装結婚はしますが、原作と違ってその後の結婚生活はありません。英語に難があったことからセリフはごくわずかで、水着姿で走ったり泳いだりという場面がほとんど。それに対して原作にはない、ボンドを助ける諜報員アキ役の若林は、出演シーンもセリフも多く、ボンドガールらしい堂々たる活躍でした。

それはそうと、かてて加えて気になる謎の人物は「青木の奥さん」。ラジオ局の受付に志のだ寿司の折詰を届けては、黒木憲[11]往年の歌手・1942-2006年の新曲をリクエストするという、単なる今似の大ファンかと思いきや、その神出鬼没ぶりで今似の絶体絶命の危機を救ってくれるのです。志のだ寿司とは稲荷寿司のこと。歌舞伎や浄瑠璃の狐の恩返し的なお話である「しのだづま」[12]安倍晴明を産んだとされる狐の化身、葛の葉の物語と絡めて、しのだ寿司の名があります。ちなみに名古屋で「志の田」というと刻んだ油揚げや蒲鉾がのったうどんですね。

作中でシャリアピンステーキなるものをつくる場面があります。まだ小学6年生の小生にはこれがどんなものかわからず、料理の専門家だった母に尋ねました。するとその翌日、「ムッシュ[13]母の知人だった某ホテルの料理長のルセット[14]フランス語でレシピよ」と言って早速つくっては、料理名の由来[15]ロシアの歌手シャリアピンが来店し、歯が痛いので柔らかいステーキをと頼まれたため考案も説明してくれたのです。
肉たたきで薄く伸ばした牛肉を、包丁の背でさらに叩いて均等な厚さにしてから、すりおろしタマネギに漬け込みます。みじん切りのタマネギを茶色くなって甘みが出るまでよく炒めておき、両面を短時間で焼いたステーキの上にたっぷりとのせて出来上がり。

左:志の田うどん / 右:シャリアピンステーキ

そんなこんなで、尋常ではない災難に見舞われたDJ今似は、オヨヨ大統領との熾烈な闘いから無事に生還できるのやら。


「大統領の晩餐」(1972年)
あとがきに書かれているように、「料理への偏執」をテーマにした、「料理道」をめぐる求道者小説のパロディです。食通としての小林信彦らしい記述がたっぷりと盛り込まれています。しかしながら、最初に読んだ当時はシャリアピンステーキの場合と同様に、料理の名前やつくり方や店名についてはさっぱりわからず、母や母の知人の専門家にいちいち教えてもらっては納得していたものです。

物語は、前作で足を骨折しながらも、スイス銀行襲撃などと大胆な犯罪を目論むオヨヨ大統領と、オヨヨ逮捕に執念を燃やす鬼面(おにつら)警部の対決を軸に展開。天才料理人と称される高学林と料理道を探求して悩み続ける矢野源三郎、それにひょんなことからテレビの料理番組でスターとなった幇間のごとき二八(にっぱち)といった面々の、料理道の極みを目指す姿が同時進行します。「密使」に引き続き細井や南洋一らも登場し、鬼面警部の部下の旦那(だんな)刑事が大暴れ。オヨヨ一派との激烈な抗争をかいくぐり、命からがら潜り抜けた今似もちょっとだけ顔を出します。「オヨヨ島の冒険」のお間抜けコンビ、ニコライとニコラスも相変わらずのズッコケぶりで一役買う場面も見逃せません。それと、オヨヨ大統領が師と仰ぐ、老人になり怪人千面鬼と名を変えた怪人二十面相。その二十面相の出現をずっと待っている、こちらも年老いた明智小五郎と中年探偵となった小林芳雄[16]言わずと知れた少年探偵団の団長もおまけで参加。明智が小林に向かって「ゴドオがくることはあっても、二十面相が現れることはないような気がしてくるなあ」と言います。ゴドオとは、サミュエル・ベケットの戯曲”En attendant Godot”「ゴドオを待ちながら」で、ウラジーミルとエストラゴンが待ち続ける人物[17]最後まで現れず、何者なのか不明なまま幕となるのこと。ヒロイン的存在は、フルートを奏でる東洋系アメリカ人の娘ミス・ストリート。吉川英治の小説「宮本武蔵」で、武蔵の恋人として描かれている、横笛を肌身離さず携えた「お通」[18]吉川英治の創作のもじりです。

全編通じてさまざまな料理のオンパレード。いま読んでも気になるメニューばかりです。まず、「湯葉を使って炸肉素捲(チアロウスウチアヌ)を作って…」とあり、これがまるでわかりません。中国料理の先生から、湯葉ではなく豆腐皮という薄いシートのような豆腐で、肉や野菜をを包んで揚げた春巻きみたいな料理だと教わりました。そして初めて目にした「モッツァレラ」という単語。「…水牛の乳からとれる豆腐みたいなチーズ…」と表現されても、さっぱり味のイメージができないまま、実際に口にしたのは4、5年後ぐらいだったと思います。モッツァレラも含めてオヨヨ大統領のピザへのこだわりはかなりなもの。でも読み返してみると、せっかく頼んだピザにタバスコをかけるというのは時代を感じる部分です。

小生が初めてピザを食べたのは、幼稚園児だったころのことだ思います。母と買い物に行った銀座のデパ地下の、催し物としてガラス張りブースの中でつくられていたのが「ピザパイ」。大きな長方形に焼きあがったピザパイを、一皿サイズに四角く切って販売していました。いくつか種類があったかもしれませんが、買ってもらったのはトマトソースとたっぷりのチーズだけのもの。その場で熱々を頬張ったのが幼い頃の記憶です。その後ピザパイは、そのデパートのお好み食堂のメニューにも加えられます。この作品が世に出たあたりには方々に専門店もできて、冷凍食品も販売され、お手軽なスナックとして広まっていました。高校時代の渋谷でよく行ったのは、公園通りで有名な「ピザハウス・ジロー[19]現在は渋谷東武ホテルがある場所」の先にあった「シェーキーズ」。学校のお昼休みに友達とタクシーに乗って店前まで行き、500円の食べ放題を堪能して午後の授業までに戻るというようなことをやっていました。懐かしい思い出です。

小林信彦自身がもっとも好むという中国料理に関してはさすがに詳しく、最後に料理人3人がパーティのために用意したのは中国宴会料理のフルコース。ずらりと並んだ献立には、食べたことはもちろん、見たことも聞いたこともない料理ばかりが並んでいました。燕の巣のすまし、かに入りふかのヒレ、なまこの煮物などは有名な高級料理だと教わりましたが、小学生としてはあまり食べたい気分にはなれなかったものです。パーティと時を同じくしてオヨヨ大統領と鬼面警部の戦いは最終局面に。果たして決着はいかに。

オヨヨ大統領が鬼面警部に対して放つ言葉は、イギリス映画「第三の男」”The Third Man”(1952年日本公開)でオーソン・ウエルズ演じるところのハリー・ライムが、親友のホリー・マーチンス(ジョセフ・コットン)に向かって言う名セリフの要約でした。グレアム・グリーンによる脚本の元のセリフはこんなところ。
“In Italy for thirty years under the Borgias, they had warfare, terror, murder, and bloodshed, but they produced Michelangelo, Leonardo da Vinci, and the Renaissance. In Switzerland, they had brotherly love, they had five hundred years of democracy and peace, and what did that produce? The cuckoo clock.”
「イタリアではボルジア家の支配下の30年に、闘い、テロ、殺人に流血事件が起きた。でも彼らはミケランジェロ、レオナルド・ダ・ヴィンチとルネサンスを生み出した。スイスでは兄弟愛があり、500年間の民主主義と平和があった。で、彼らは何を生み出した?カッコウ時計さ」。(拙訳)
ハリーは、偉大な文化を生むのは平和や友愛などではなく、騒乱や抗争なのだと、自分の地下犯罪組織に加わるように誘うのです。ボルジア家が文化、芸術の保護を行ったのは事実ではあるものの、ルネサンスが花開く風土をつくりあげたのは紛れもなくメディチ家です。ボルジア家出身で、チェーザレとルクレティアの父でもある教皇アレクサンデル6世(ロドリゴ・ボルジア)は権謀術数を使って列強諸国と渡り合おうとしてうまくいかず、戦乱の世を生みます。彼と対立しながらも、その軍事的政策を引き継いだ教皇ユリウス2世は、サンピエトロ大聖堂の再建に手を付け、いまもヴァチカン美術館の至宝と言える、ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂天井画やラファエッロの「署名の間」の制作を依頼したことで美術史上の評価が高い人物です。ヨーロッパではボルジア=極悪非道のイメージが出来上がっていたので、こんなセリフが意味を持ったということでしょう。ちなみにウエルズ自身が、映画公開時にスイス人から指摘されたそうですが、カッコウ時計はドイツ南部のschwarzwald黒い森地方の工芸品なので、スイス製ではありません。

右:ルクレティア・ボルジア(ピトゥリッキオ画)

References

References
↑1 これと別にジュブナイル版の「オヨヨ城の秘密」がある
↑2 小林信彦のペンネームでもある
↑3 ジョン・ル・カレの描くジョージ・スマイリーがモデルと思われる
↑4 冒険小説で有名な作家
↑5 井上一夫訳の日本語版ハヤカワ・ポケット・ミステリでは「007号は二度死ぬ」
↑6 フレミングの公式後継作家
↑7 和訳すると「過去からの爆風」という感じ
↑8 巻頭の引用文
↑9 映画では丹波哲郎が演じた
↑10 滋賀県甲賀市水口町の大岡寺にある句碑には「いのち婦たつ中に活たるさくらかな」とある
↑11 往年の歌手・1942-2006年
↑12 安倍晴明を産んだとされる狐の化身、葛の葉の物語
↑13 母の知人だった某ホテルの料理長
↑14 フランス語でレシピ
↑15 ロシアの歌手シャリアピンが来店し、歯が痛いので柔らかいステーキをと頼まれたため考案
↑16 言わずと知れた少年探偵団の団長
↑17 最後まで現れず、何者なのか不明なまま幕となる
↑18 吉川英治の創作
↑19 現在は渋谷東武ホテルがある場所